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芸術と日常 小説家・磯﨑憲一郎

横尾忠則 黒い空洞 2014年 作家蔵
横尾忠則 黒い空洞 2014年 作家蔵

人生の実感、率直な言葉に

 NHKの連続テレビ小説「半分、青い。」を観(み)ていて、どうしても覚えてしまう違和感、という表現では足りない、ほとんど憤りにも近い感情の、一番の理由は、芸術が日常生活を脅かすものとして描かれていることだろう。漫画家を目指すヒロインは、故郷を捨てて上京する、そのヒロインが結婚した夫は、映画監督になる夢を諦め切れずに妻子を捨てる、夫が師事する先輩は、自らの成功のために脚本を横取りしてしまう……漫画や映画、そして恐らく小説の世界も同様に、生き馬の目を抜くような、エゴ剝(む)き出しの競争なのだろうと想像している人も少なくないとは思うが、しかし現実は逆なのだ。故郷や家族、友人、身の回りの日常を大切にできる人間でなければ、芸術家には成れない、よしんばデビューはできたとしても、その仕事を長く続けることはできない。次々に新たな展開を繰り出し、視聴者の興味を繫(つな)ぎ止めねばならないのがテレビドラマの宿命なのだとすれば、目くじらを立てる必要もないのかもしれないが、これから芸術に携わる仕事に就きたいと考えている若い人たちのために、これだけはいって置かねばならない。芸術は自己実現ではない、芸術によって実現し、輝くのはあなたではなく、世界、外界の側なのだ。
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 保坂和志の短篇(たんぺん)集『ハレルヤ』(新潮社)には、愛猫との別れの日々を綴(つづ)った表題作と併せて、その愛猫との出会いを描いた、今から十九年前に発表された作品「生きる歓(よろこ)び」も再録されている。五月の連休に義母の墓参りで訪れた谷中霊園で、作者と妻は、歩道の真ん中でうずくまっている、生後間もない瀕死(ひんし)の三毛猫を見つける、既に二匹の猫を飼っているので三匹目は飼えないと思いつつも見捨てては置けず、貰(もら)い手を探す積もりで一旦(いったん)連れて帰るのだが、獣医に診て貰ったところ、この猫には片目がないことが分かる、そこで作者は自分で育てる決意を固める。ここには美談が書かれている訳でも、不思議な運命が書かれている訳でもない、現実に起こったこと、事実と経験がそのまま書かれている。自分のことは全て後回しにし、小説の執筆も中断して、作者は猫の看病に掛かり切りになる、その甲斐(かい)あって弱っていた猫は徐々に回復し始める、自ら進んで食物を摂(と)るようになった猫を見ながら、「生きていることの歓びを小さな存在のすべてで発散させているよう」だと書かれているのも、目の前の現実に対する作者の率直な実感に他ならない。
 表題作「ハレルヤ」では、猫は老いて不治の病に冒(おか)され、十八年八カ月の生涯を終えて旅立つ。亡骸(なきがら)を前にして、作者夫妻は改めて、もしもこの猫が片目でなかったら里親を探していたであろうこと、しかし自分たちが一緒に暮らしていた長い年月、片目であることは全く気にしていなかったことに思い至る。「死はまったく学習できない、死別することの心の準備は死ぬ瞬間までできない」「死は悲しみだけの出来事ではない」「それを忘れたら生きてはいけないようなことは言葉を介在させずに記憶する」「それは祈りだからそこに言葉はなかった、光と風と波だけがあった」。愛猫の死に接して絞り出された、読む者の心を震わせるこうした言葉も、哲学や箴言(しんげん)とは明らかに異なる、紛れもない作者の人生の実感なのだ。
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 デビュー以来の保坂和志の全著作を読んできた一人として、ここ数年の作品はシンプルに、ストレートに、より融通無碍(ゆうずうむげ)に書かれていることを強く感じる。「小説は読んでいる行為の中にしかない」というのは、この作者自身のかつての言葉だが、近年の作品は読後の感想や批評も寄せ付けない、それを読みながらただ深く感じ入るしかない、最強の小説と成り得ている。そして何よりも作者の作品では、全ての芸術家の導きとなる生き方が示されている、「おまえと世界との闘いにおいては、かならず世界を支持する側につくこと」というカフカの教えが、ストイック且(か)つ大胆に、実践されている。=朝日新聞2018年8月29日掲載