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竹宮ゆゆこさんの血肉と化したマンガ「うる星やつら」 ただ存在していて、ぜんぶ大好き!

「二十歳までに大好きだった作品について書いてみませんか?」
 このエッセイのご依頼をいただいた時、真っ先に頭に浮かんだのは『うる星やつら』のことでした。
 ――書こう。(0.1秒)
 ――うる星について書こう。(0.1秒)
 合わせてわずか0.2秒。
 気持ちは即、定まっていました。揺らぎも迷いも一切なし。『うる星やつら』という作品と、いつ、どうやって出会い、どんなところが大好きだったのか。そんなのいくらでも書けるし書きたい。幼年期からこども時代、思春期を経て今日に至るまで、私が受けてきた影響の大きさを考えれば、このエッセイで取り上げるべき作品はうる星の他にあるわけがない。
 そんな確信に導かれるようにしていざこうして書き始めてみたものの、しかし。私は今、自分でも予想もしていなかったところにふと引っ掛かりを覚えて、立ち止まってしまっています。
 大好き……?
 大好き、だった……?
 それでは過去形ではないか、二十歳の倍の年数を生きてしまった今でも大好きなのに、とか、そこではないのです。もっとそもそもの部分。大前提の部分。

 私は今まで、『うる星やつら』という作品について、好きかどうかを考えたことがあっただろうか?
 私は本当に、うる星が大好きだったのだろうか?

 たとえば、りんごという果物と初めて出会った人がいるとします。りんごが好きかどうかを判断するために、その人はなにをするでしょう。
 まずはきっと、手に取ってみる。そして眺めてみる。そっとにおいをかいでみて、恐る恐るかじってみる。噛んでみる。飲んでみる。そうやってその人は、りんごって甘いな、とか、歯ざわりがいいな、とか、赤いなとか丸いなとか手の中でずっしりと重かったなとか、そういうことを色々感じるはずです。
 そんなこんなを経て、そうして初めて、その人は判断を下すのです。私はりんごが<好きだ/嫌いだ/大好きだ/大嫌いだ/普通だ>。
 要するに、好きかどうかの判断は、自分の外側に現れた異物に対する自分の反応を分析した結果なのだと思うのです。
 ――私はうる星が<好きだ/嫌いだ/大好きだ/大嫌いだ/普通だ>。
 そういう判断を、私はこれまでに下したことがあっただろうか? 反応と分析の手順を辿ったことがあっただろうか?
 そもそも、私にとって、うる星が「外側に現れた異物」だったことがあっただろうか……?

 私は自分がいつから文字を読めるようになったのか覚えていません。いつから文章をすらすら理解できるようになったのかも覚えていません。
 覚えているのは、幼稚園の頃にはすでに、『うる星やつら』のコミックスを持っていたこと。手にした最初の一冊は17巻でした。
 朝も昼も夜も、家でも幼稚園でも、私のそばにはいつもうる星のコミックスがありました。頭の中で思う自分は、友引町に暮らしていました。小学生になっても、中学生になっても、高校生になっても、大学生になっても、いつも一番近くの本棚の一番取り出しやすいところにコミックス全34巻は並んでいました。
 自分が字を読めることにすら気づいていなかった頃から、私はずっと『うる星やつら』に夢中だったのです。自分と他者の違いすらわからないうちから、自我もまともに芽生えていない頃から、自分を取り巻く現実の世界の構造を認識するよりももっと早くから、私は『うる星やつら』の世界を生き始めていたのです。
 だから今も、私の頭上の空を編隊組んで飛んでいく男子高校生たちは「ぶるういんぱるすっ」と叫んでいます。
 爆発物はちゅどーん! と音を立てて破裂するし、吹っ飛ばされた時は人差指と中指だけを折り曲げた手の形になっています。
 女同士で意気投合すれば「いい女だぜ!」とパンチし合うし、風呂の音はかぽ~んだし、野球のボールは飲んじゃうし、花瓶さんは花を食べちゃうし、タコが襲われれば花見がとりおこなわれるし、甲冑の胸には乙女と書いてあるし、制服のシャツの背中には男と書いてあるし、鎖は家の鍵だし、節分では目が尋常じゃなくなるし、海が好きー! と叫んでしまうし、階段には猫がいるし、ちょっとかわいい女の子がいれば異常な身体能力を発揮して速攻でナンパしてぺらぺらぺらぺら口説きまくって殴られようとなにをされようと決してめげずに何度でもいやらしくすり寄っていくくせに、たった一人、広い宇宙でたった一人の女の子にだけは、絶対に素直になれなくて、絶対に好きだなんて言えなくて、でもその子と絶対一生一緒にいるととっくに決めていたりするなら。
 もしもそうなら、それがダーリンだし。
 おユキちゃんだけは怒らせちゃいけないし。
 私が生きている世界はそういう世界だし。それが私だし。
 ……つまり、私にとって、うる星が「外側に現れた異物」だったことなど、恐らくはただの一度も、ただの一瞬も、あるわけがなかったのです。

 私は鼓膜が大好きだっただろうか? 私は腎臓が大好きだっただろうか? 私は奥歯が大好きだっただろうか? 私は赤血球が大好きだっただろうか? 私はランゲルハンス島が大好きだっただろうか? 私は右目が大好きだっただろうか? 私はうる星が大好きだっただろうか?
 わかりません。
 それらはただ存在していて、気が付けばいつもそこにあって、あるのが当たり前で、なければ私はこうして生きてはいなくて、自分が自分であるためには決して欠くことができません。
 大好きだった、と語るには、それもこれもあれも、あまりにも「自分の中身」すぎる気がしてしまうのです。

 大人になる前に読んでしまったらそれ以前の自分にはもう二度と戻れなくなるような、そういう本との出会い――一種の通過儀礼が、私にもありました。それはたとえば、恋愛に浮かされるように貪り読んだ大槻ケンヂの小説やエッセイ。私が死んだらお棺に入れて、と本気で父親に頼んだ大江健三郎の『芽むしり仔撃ち』。親友の部屋で徹夜で回し読みした根本敬。正直いまだに立ち直れた気がしない山岸涼子の『日出処の天子』。
 二十歳になる前に出会ってしまったこれらの本に私は変えられ、変えられる前の私には永遠に戻れなくなりました。
 でも、そうやって変わってしまった私の傍らに、変わらずにずっとあるのが『うる星やつら』全34巻なのです。
 住む家が変わっても、暮らす家族が変わっても、取り返しがつかないほど年齢を重ねてしまっても、幼稚園児だった頃からどれだけ遠くに来てしまっても、それでも私の本棚には、『うる星やつら』が揃っているのです。
 手を伸ばせばいつだって、私はそこに帰れるのです。どこかへ帰れる、なんていう気分がたとえ幻想でしかないのだとしても、ページを開いている間だけは、私は確かにどこか懐かしくあたたかなところへ帰っているのです。

 私は『うる星やつら』が大好きだった――と、いうことにしてしまおうと思います。大好きだった。ここからは、そう臆面もなく語ってしまおうと思います。
 私は鼓膜が大好きだった。私は腎臓が大好きだった。私は奥歯が大好きだった。私は赤血球が大好きだった。私はランゲルハンス島が大好きだった。私は右目が大好きだった。私はうる星が大好きだった。
 私という人間がこの世界に生まれ、育ち、為すすべなく変わってしまいながら、今ここにたどり着くまでの月日が大好きだった。
 ぜんぶぜんぶ、大好きだった。