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【谷原店長のオススメ】人見知りの小説家と両親を亡くした姪、年の差20歳の手探り共同生活 ヤマシタトモコ『違国日記』

 現実社会を生きる僕らには「タグ」のように、さまざまな属性が割り当てられています。たとえば僕は、男であり、父であり、息子であり、友人で、幼なじみで、「仕事関係の人」でもある。そんな幾つもの「タグ」を無意識のうちに整理し、切り替えながらたがいのありようや距離感を保ちつつ、僕たちは生きています。ところが、そういったことが苦手なひとと出会ってしまったら……。予想もしなかったハレーションが沸き起こってしまうのです。

 ヤマシタトモコさんの漫画『違国日記』(祥伝社)に登場する人物たちは皆、誰が悪いわけでもない、どの考えが間違っているわけでもない。言わば「違う国」にいるひと同士が葛藤、孤独、後悔を繰り返し、一歩進んだり、戻ったりしていきます。僕自身も、読みながら反省したり、ハッとさせられたり。どの台詞もさまざまに捉えられて、読むのにとにかく時間のかかる作品です。

 物語の要となるふたりは、35歳の女性と、15歳の姪。少女小説の作家である槙生(まきお)は、人との距離の計り方が苦手で孤立しがち。そして価値観の異なる姉と反目しながら暮らしてきました。その姉は夫と共に、突然の交通事故に見舞われ、世を去ってしまいます。姉の一人娘の中学3年生、朝(あさ)は、葬式で一族から「たらい回し」に。そんな大人たちに腹を立て、槙生は朝を引き取ることを宣言し、物語はそこから始まります。

 不器用な槙生と、子犬のように無邪気で素直な朝の、年の差20歳の手探りの暮らし。槙生を見守る元恋人・笠町や、朝の親友・えみりたちが、彼女らの試行錯誤の日々に関わりながら、時は流れていきます。槙生は、嫌悪してきた姉の娘である朝と生活し、対話を重ねるうちに、自問自答しつつもちょっとずつ変わり始めていく。彼女の姿を見ていると、僕はアインシュタインの「知的成長は、生まれて始まり死ぬ時に終わる」という言葉を思い起こすのです。

 ひとの成長、それから冒頭に記した「タグ」について考える時、僕が躓いてしまうこと。それは、幼稚園・保育園での保護者同士の名前についてです。「〇〇ちゃんママ」「□□くんパパ」といった呼び方をし合う時がありますよね。何だか、数年間の一過性の呼称で、自分自身のことを見てくれていないような気持ちになる時もある。僕の考え過ぎかも知れませんし、卒園後も仲良しのママ・パパは勿論いらっしゃるとも思うのですが、人間同士の関係性に成長や変化が求められていないような印象を覚えてしまうのです。そしてそれと同時にそれ以上の関係を求めていない方もいらっしゃる。

 そのいっぽうで、たとえばその人の名前、その人を直接指す呼びかたで呼ぶ関係は、絶えず変化していきます。80歳を越えた僕の父は、僕にとっては昔も今も勿論「父」なのですが、僕が小学生の頃の「父」と、今の「父」とでは、大きな違いがあり。「父」から見ても「息子」の僕は昔と今とでは違うはずです。物語の槙生と朝のように、繫がったり、軋轢を生んだり、葛藤したりしてこそ築き上げられ表面のタグは一緒でも中身は変化していく。友達や仕事関係の人たちにも同じことが言えるのではないでしょうか……。相手からか自己からか、人と人の関係は熟成したり腐ったり凍りついたり熱くなったり変化していく。

 ある場面が心に刺さりました。槙生が朝と一緒に、朝の実家の荷物を片付けに行った日のこと。あらかた整理した後、朝が叫びます。

 「槙生ちゃん!! 明日卒業式だった!!」
 「えっ…、あなた制服捨ててないよね!?」
 「なっ、ないっ、でも捨てる袋に…」  (読点「、」のみ編集部が付記)

 慌てる朝を後目にしながら、その直後、槙生のこんなモノローグが続きます。

 「…こういうとき、家族だと、思わず相手を責める言葉が口をついて出るものだったな、思い出す、いいことも、わるいことも」(同上)

 ああ、この気持ち、僕もよく分かります……。我が子に対しては、ついつい詰問口調になってしまう。でも、それは決して愛情が薄いからではなく、距離感の近さが理由と言い訳させてください。「きついことを言っても許してくれるはず」という甘えがあるのでしょう。

 物語では更に、朝の亡き母(槙生の姉)の言動にも、親ならではの二律背反の感情が描かれる場面が多々あります。「あなたの好きにして良い」と言いながら、「何でそんな髪型にしたの?」と問い詰めてしまう。これもよく分かる。僕も無意識のうちに、「ダブルバインド」を我が子に投げ掛けてしまっているかも知れない。胸に手を当ててしまいます。

 繊細な槙生を見守る元恋人・笠町は、朗らかな性格で盛り立てていきますが、彼も、過去にはいろいろな葛藤を抱えています。親との確執。とりわけ彼の母親は、完璧な献立のお弁当さえ持たせておけば、完璧に育つ、と思い込むようなひとでした。

 じつは僕も、以前はそう考えていた時期があったんです。でも、今は違う。大事なことは、「一緒に楽しい時間をどう過ごすか」。お店でお惣菜を買ってきたって良い。「手作りこそ愛」というのはある意味、親の自己満足に過ぎません。両親が揃っていない子、ひとりで食事する子も世の中にはたくさんいて、さまざまな立場のひとがいる。そう気付かされてからは、「楽しい時間を共有することが大事だ」と思い直すようになりました。

 極端な話、「この子のために」と思う気持ちさえあれば、食卓を一緒に囲まなくても良いとさえ思うんです。「今日は一緒に食べられないけど、息子の大好きな鮭のおにぎりを用意しておいてあげよう!」。これだって、思いはちゃんとこもっているはずです。

 登場人物一人ひとりの細やかな心理描写が、この物語には随所に散りばめられています。男女観、家族観、友人観、仕事観、兄弟観。そしてセクシュアリティ。さまざまな立場や属性、そのひとたちが持つナイーブな部分の存在に気付かされます。とりわけ、朝の親友・えみりが思いを伝えられない姿は、とてもとても切ない。何気ない一言が、思いもよらないところで誰かを傷つけている。そんな幾つもの伏線が散りばめられています。

 「この僕の一言が、誰かを傷つけることはないのだろうか」。司会を務める生放送の音楽番組で、僕をはじめスタッフ皆気を遣います。この国では、いつもどこかで激甚災害が起きていますよね。たとえば大雨洪水の時、雨に関する楽曲を予定に組み込んでいる時にどうフォローするか。こんな紹介文で良いのか。無神経になっていないか……。視聴者の皆さんが楽しんで頂けるように、傷つけないように、いつも細心の注意を払って臨んでいます。

 結果傷つけてしまったら、精いっぱい、その傷をどう癒してあげられるかを考えていきたい。そして他人を傷つけることを恐れるあまり、何も行動しなかったり、他人との関係性を持たなかったりするようにはなりたくない。

 最近は、他人を傷つけることを怖がる傾向が強いと感じるのですが、それは皆、自分自身が傷つきたくないからなのかも知れません。コロナの今、ひとと触れ合えず、握手さえできず、距離は広がるばかりです。このままでは愛することも、愛されることも無くなってしまうのかもしれない。それが僕は怖い。誰かと相対するからこそ、人間には変化が生まれます。ひとりでいたら、ぐるぐる同じ場所をまわるだけ。空気は澱み、何も変わりません。

 『違国日記』のなかのひとたちは、傷つき、ぶつかりながらも、きちんと意見を持ってがっぷり四つに相対している。今の時代だからこそ読んで欲しい作品だと思います。

 この物語は現在連載中のため、未完です。今後、僕がちょっと注目してみたいのは、途中から登場してくる「フィクションをまったく読んだことがない」という弁護士さん。僕自身、役者として、人は現実とは異なる世界に浸かることで、現実の自分が癒され、現実世界で抱える問題の解決の糸口が見えることがあると感じます。いったん現実を忘れることも大事。フィクションの中にフィクションを読んだことがない人を出すあたり、ヤマシタトモコさん、さすが!

 ところでヤマシタさんのほかにも最近、僕がドハマりしている漫画家さんがいるんですよ。まずは、和山やまさん。『女の園の星』『夢中さ、きみに。』『カラオケ行こ!』。性別の枠を超えて人間を描き、しかもちょっとサブカルっぽい。いくえみ綾さんも絶対お薦めです。最近の僕は、暇さえあればいくえみ作品を読みふけってしまう。『おやすみカラスまた来てね。』『1日2回』『私・空・あなた・私』。こころの琴線に触れる世界。ぜひ体験してみては。(構成・加賀直樹)