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「羊は安らかに草を食み」書評 癒えぬ戦争の傷 誰が受け継ぐ

評者: 大矢博子 / 朝⽇新聞掲載:2021年02月13日
羊は安らかに草を食み 著者:宇佐美まこと 出版社:祥伝社 ジャンル:小説

ISBN: 9784396636036
発売⽇: 2021/01/08
サイズ: 20cm/358p

羊は安らかに草を食み [著]宇佐美まこと

 86歳の益恵、80歳のアイ、77歳の富士子。20年以上に及ぶ仲良しだが、益恵の認知症が進み意思の疎通が困難になってきた。
 益恵の夫は妻を施設に入れることを決意。その前に益恵と一緒に旅行してもらえないかと2人に頼む。益恵の心には何か「つかえ」があるらしい。理性で抑えていたものが認知症で溢(あふ)れ始め、過去の断片に苦しめられている。それを取り除いてやりたいのだと。
 行き先は益恵が前夫と過ごした大津と松山、そして旧満州から引き揚げ後に暮らした長崎県の離島。益恵の人生を遡(さかのぼ)り、「つかえ」を探す旅である。
 行く先々で当時の益恵を知る人から話を聞き、ついに長崎で益恵が生涯抱え続けてきた秘密に触れる。もう本人は覚えていないようなのだけれど……。
 3人の旅路と並行して語られる旧満州時代の益恵の物語が凄(すさ)まじい。戦争末期、銃弾の飛び交う地域を逃げ惑い、家族と死に別れ、10歳の子どもがただ生き抜くために闘う過酷な日々。
 それだけでも十分小説になり得るのに、著者はそれを「消えゆく記憶」として描いた。確かに忘れた方が幸せかもしれない。だがそのとき益恵の記憶はどこに行くのか。彼女が生きた証(あかし)は誰が引き受けるのか。
 読者である。彼女の記憶は読者が、つまりは後の世代が受け止め、風化させないよう語り継いでいかなくてはならない。そのために過去パートでは益恵の闘いが詳細に綴(つづ)られるのだ。
 大津、松山、長崎を訪ねる旅路とともに益恵の戦後を追うロードノベルは、過去と現代のふたつのパートが融合して終わりを迎える。終盤、怒濤(どとう)の展開とともにアイと富士子の運命も急転するくだりは圧巻。
 本書は、記憶は失われても決して消えない友情の物語であり、今なお癒えない傷を抱える戦争体験者の物語でもあり、人生の終幕にもう一度前を向く人々の物語でもある。荘厳という言葉がふさわしい一冊だ。
    ◇
うさみ・まこと 1957年生まれ。作家。2006年デビュー。17年、『愚者の毒』で日本推理作家協会賞。