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「もう死んでいる十二人の女たちと」 言葉にする・しない 一つ一つで 朝日新聞書評から

評者: 金原ひとみ / 朝⽇新聞掲載:2021年04月10日
もう死んでいる十二人の女たちと (エクス・リブリス) 著者:斎藤真理子 出版社:白水社 ジャンル:小説

ISBN: 9784560090664
発売⽇: 2021/02/25
サイズ: 20cm/221p

もう死んでいる十二人の女たちと [著]パク・ソルメ

 八編の短編で構成された本書は、それぞれ舞台も主人公も設定も違う。唯一の三人称で書かれた「そのとき俺が何て言ったか」では、若い女性が「ちゃんとやる」ことに固執する男に監禁され、歌を歌わされ続ける。
 「じゃあ、何を歌うんだ」では光州出身の主人公が、サンフランシスコや京都で光州事件、済州島四・三事件など、韓国の歴史的な事件を語る人々に出会う。しかし彼女はしきりに「私の前にはカーテンがある」と考えており、そうした事件に当事者意識を持っておらず、距離を感じていることが分かる。
 その「カーテンがある感覚」は「冬のまなざし」でも描かれる。数年前に古里(コリ)原子力発電所で大きな原発事故が起こったという設定で、事故のドキュメンタリー映画のイベントに参加した主人公は、「今起きているあの事件そのものを自分の目で見た人間になるべきだという考え方に疲労と欺瞞(ぎまん)を感じる」と考える。あらゆる事故や事件に於(お)いて、当然だが当事者よりも非当事者の方が多く、更に当事者と非当事者の境目は曖昧(あいまい)だ。しかし、当事者じゃないくせに、不謹慎だ、などの言葉で封殺されてきた、一見どうでもいいように見えるけれど取りこぼしてはならない一個人から見える世界が、偽りなく描かれている。
 表題作でもある「もう死んでいる十二人の女たちと」は、「そのとき俺が何て言ったか」と対になっているようにも読める短編だ。キム・サニ(すでに死んでいる)らに殺された女たちが復讐(ふくしゅう)の機会を与えられ、何度殺されても生き返るキム・サニ(もう死んでいる……)を延々殺し続けるのだが、この小説に於いても、主人公はキム・サニや十二人の女たちではなく、彼らの殺戮(さつりく)風景が何故か見えてしまう精神衰弱の男性が、街で偶然再会した幼馴染(おさななじみ)の女性だ。
 本書の一人称で描かれる主人公たちは、皆カーテンの奥にいて、自分に降りかかるかもしれない事故や事件、そして手に触れられない世界を俯瞰(ふかん)し、観察している。
 著者は、カーテンの向こうにある、浮遊するものを描き出しているように感じられる。その作業はまるで、一つ一つの砂を顕微鏡で精査して、言葉にする、しない、を決めているかのような、気の遠くなる作業に思える。しかしそれ以外に、カーテンの向こうを正確に表現する手立てはないのだ。言葉にならないものを尊重し、言葉にすることの野蛮さを自覚している者だけが実現できる噓(うそ)のない世界が、ここにはあった。
 経路不明の強烈な感動がたびたび訪れ、読みながら何度も泣いた。それは想像もできないほど遠い他者を、己の内に見つけた感動だったのかもしれない。
    ◇
Bak, Solmay 1985年、韓国生まれ。2009年、長編小説「ウル」でデビュー。「冬のまなざし」で文学と知性文学賞、短編集『じゃあ、何を歌うんだ』でキム・スンオク文学賞。2019年、キム・ヒョン文学牌を受賞。