われら日本「不良債権」資本主義が最近すこし元気を回復したら、またゾロ奇想天外な物語を量産している。
例えば「他人の家に土足で踏みこんで『仲良くしよう』と言う」ホリエモンの<革命>的資本主義とか、創業者堤康次郎という「土地に憑(つ)かれた鬼」の「亡霊に怯(おび)え続けた」(猪瀬直樹)コクド・西武グループの<伝奇ホラー>風資本主義なんてのが、花盛りである。
特に後者、わたくしなんぞは、横溝正史の『獄門島』を思い出しちまった。あれはサ、島の支配者=大網元たる鬼頭家の本家と分家の<骨肉の争い>、本家の当主だった嘉右衛門の影、愛欲がからむ人間関係と消せない記憶が一族の栄耀栄華(えいようえいが)を根絶やしにしてゆく、<因果応報>の物語だった。
でね、そんな封建的な<鬼>が出る世は<闇>だってンで、この七尾和晃の「闇の帝国」“史観”が、大向こうに受けているのだろう。
七尾は、その闇帝崩壊の発端となった株管理操作(コクド社員らの名前を使用した借名株)疑惑が、康次郎の「大番頭」だった中嶋忠三郎の貸金庫に隠されていた「一枚の書類」から発覚してゆく物語を緊迫した筆で描いている。週刊誌専属記者の職も捨て追及取材を続けた著者の労には、心からねぎらいの言葉をかけたい。
ただ、世界一の富豪にまで上り詰めた堤義明の歩みを支えたのは、土地バブルのみならず、企業共同体に忠誠を誓うことで安穏な「居場所」を確保してきた<家臣団>サラリーマンの文化ではなかったろうか。いま日本はそうした企業忠誠文化が崩れた代わりに、“寄らば大樹”としてのナショナリズムが台頭してきた。堤義明の蹉跌(さてつ)とは、そうした「企業」から「国家」へ、「私」から「公」への大転換期を映す鏡のように、私には思える。