羊たちの読書会 2

羊たちの読書会 2

 「知の技法」シリーズの編者として知られる文化人類学者の船曳建夫・東京大名誉教授が主宰する「羊たちの読書会」の第2回です。文学部から医学部志望者までがいる東京大の1、2年生とそのOB・OGが集う名物ゼミ「儀礼・演劇・スポーツ」から発展した読書会で、さまざまな分野で活躍する、さまざまな年代の参加者が、大人の読書の楽しみを伝えます。今回は三島由紀夫の『美しい星』、レヴィストロースの『悲しき熱帯』、ホーキングの『ホーキング、宇宙を語る』の3点を取り上げます。
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 ふなびき・たけお 1948年、東京生まれ。94年、東京大学教養学部教授、2012年、名誉教授。専門の関心は、人間の自然性と文化性の相互干渉、儀礼と演劇の表現と仕組み、近代化の過程で起こる文化と社会の変化。編著書に、『国民文化が生れる時』(リブロポート)、『知の技法』(東京大学出版会)、『柳田国男』(筑摩書房)、『大学のエスノグラフィティ』(有斐閣)、『右であれ左であれ、わが祖国日本』(PHP新書)、LIVING FIELD(TheUniversity Museum, The University of Tokyo)などがある。
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 三島作品の異なる書影がついてる場合がありますが、書評はいずれも『美しい星』を対象にしています。

美しい星 (新潮文庫)

奇矯な思想家としての感覚を発揮

【船曳建夫】
 小説もまた人間に似て、運命を持つ。この小説は人類の核戦争による滅亡を一つのテーマとして書かれ、その連載が終了を迎えた時、キューバ危機が起きた。1962年10月14日から28日の、人類がもっとも破滅に近かった2週間である。
 私は、その時、中学3年で、中止も検討された修学旅行が決行となり、長姉にこの世で会えないかもしれないと話したのだが、それは冗談であれ、そうした軽口で覆おうとした眼前の切迫感はあった。三島の小説は、そのただ中、10月20日に出版され、そこで人類と共に滅びれば、その運命を完遂したことだろう。
 しかし、危機は回避され、のちに冷戦はソ連の崩壊で終わり、現実は三島の語る次元を離れていった。現実の一断面に即応した小説は、しばしば、そうした現実への関心が薄れると、その輝きも失うのだが、三島の小説もその運命を辿るかのようだった。しかし、この小説は、そうした危機から遠ざけられ、中途半端な安逸の中に沈められたかのようであったが、誰にとっても想定外の決起を行った作者三島のように、この作品も、2011年3月11日の震災による突然の原発事故によって、再び、その相貌に輝きが戻ったかのようである。
 しかし、これでは、運命というものと時代の流れというものを、同じものと捉えていることになる。私は、三島が、現実の調整技術としての政治をよく理解していたとは思わないので、彼の言動を、いわゆる政治状況と結びつけて語ることは、常に浅薄だと考える。しかし、人類といった、現実的にはそこに「政治」が存在したことのないようなレベルでの三島の考察には、奇矯な思想家としての彼の感覚がよく発揮されるようである。この小説における、個と全体の関係、宇宙的な虚無の中での行為の意味、といった議論は、哲学とは違った形で私たちに、深く再考を促す。ドストエフスキーとは資質の異なった、より演劇的な資質の持ち主としての三島のこの中編小説は、そうした深遠な人類的なテーマの断面を、手並み鮮やかに切り取って見せてくれる。

決定版 三島由紀夫全集〈10〉長編小説(10)

舞台化でテキストに肉薄

【川口典成 劇団「ピーチャム・カンパニー」代表・演出家/大学院・宗教学修士課程】
 読書会に参加したとき、私は『美しい星』の演劇公演を一ヵ月後に控えていた。であるから、読書会でも小説『美しい星』を舞台化する目論見について主に話をすることとなったので、チラシの文章を引用させていただきたい。

 以下、引用。

 『美しい星』に描かれている或る家族は、地球とは別の天体から飛来した宇宙人であるという意識に目覚め、核兵器・原子力を手にしたことで人類が破局する危機に直面する地球を救おうと立ち上がります。
 この作品の眼目は、宇宙人という外部的な存在(alien)を設定することで、人間・地球という存在を俯瞰的視野から考察・描写することを可能としたことにあるのですが、しかしながら、この作品の魅力はまた別の点にあります。
 三島由紀夫は、宇宙人であるという意識に目覚めた彼らが持つ「人間の肉体」を執拗に描くのです。つまり、この小説のナラティヴは、宇宙人という意識を持ちながら人間の肉体を持っているという矛盾を含んだものとしてあります。
 このナラティヴは、小説から演劇への移植の過程で、舞台上での役柄への漸近(宇宙人になろうとすること)と役者個人の肉体の桎梏(ぬぐいがたく人間であること)という演劇本来の「二重のナラティヴ」と接触し、小説で試みられた語りの戦略を、より直接的に露呈することになるのです。1ミリも肉体の外へは出るこ とができないという限界を持った人間が、「人類」や「世界」といったことをどのように思考・志向することができるのか。この演劇は、いま現在われわれが置かれている状況を思考・感受する方法を問い直し、探究し創造する演劇なのです。

 引用終わり。

 もうすでに演劇公演は終わっている。ここで書かれていることがどれだけ達成できたのかについては覚束ない思いもある。読書会でも話題になっていたが、この小説を「非常によくできた家族小説」と読む ことも可能である。だが私は、そのようなひとつの「物語」にとどめるのではなく、三島の「演技論」、ひいてはその上での「革命論」として読みたいと思っている。
 『美しい星』というテキストにどこまで肉薄できたか、その感触は頼りない。これからも継続して、この小説に向き合いたい。

決定版 三島由紀夫全集〈1〉長編小説(1)

張り巡らされた偶然と必然

【冨田絢子 農学部獣医学科3年】
 ある日、天命を受けたように自分が「宇宙人」であると確信する。そんな馬鹿なことがあるのか。しかし、この小説は至ってリアルだ。登場人物たちは、宇宙人であると主張しながらもどこか人間臭さが漂う。
 人間は、しばしば偶然に翻弄される生き物である。偶然の出会いは、人を幸福にするだろうし、偶然の出来事は、人の人生までも左右する。少なくとも、私の人生において重要な出来事のどれもが「偶然」であったし、結局のところ、現在の自分は「偶然の産物」なのである。しかし、彼ら宇宙人に言わせれば、「偶然とは、人間どもの理解をこえた高い必然が、ふだんは厚いマントに身を隠しているのに、ちらとその素肌の一部をのぞかせてしまった現象なのだ」。そして、舞台は東西冷戦、「不幸」な偶然によって核爆弾の発射ボタンが押され、人類を一度に滅ぼす核戦争が勃発し得る時代なのだ。物語の終盤で、彼らは宇宙人の立場から、このボタンが果たして押されるか否かを議論する。ボタン戦争という不幸な「偶然性」を議論する為には、宇宙人だけが理解できる高い「必然性」が必要であったのであろう。しかしこの小説の最も愉快なところは、彼ら宇宙人たちもまた、偶然に翻弄される点である。逆説的であるが、彼らはいくつかの偶然の出来事によって自らが宇宙人であるという確信を深めていくのだ。冒頭で言及した、人間臭さはここから来るのではないだろうか。彼らは、人間の性質と宇宙人の視点を併せ持つという奇妙な二重性を獲得することで、この小説に独特の深さとリアリティーをもたらしている。
 この『美しい星』という作品は、奇怪な宇宙人たちの家族物語であり、東西冷戦・核戦争という時代を投影した時事小説であり、しばしばドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』に例えられるような、人間の本質について議論した哲学書でもある。そして、少し読み方を変えてみれば、このように「偶然」と「必然」が織りなす論理が、物語の裏側で張り巡らされていることを発見する。連載終了からちょうど50年、三島が抱いた危機感に、人類は解決策を見いだせたのか、再考を迫られる一冊である。

悲しき熱帯〈1〉 (中公クラシックス)

あふれ出す論理とイメージの奔流

【船曳建夫】
 人はどこかでかたちにならないものを、そのかたちがなんであるかが分からないまま、書かないことの危機感が書き終えられるかどうかの危惧よりも遥かに大きいがために、海図を持たない出帆のように、書き始めることがある。
 レヴィストロースにとって、この本は、まさにそうしたもので、『親族の基本構造』という、内容は別にすると、手つきと体裁は古風な学術的著作をものしたあと、その後の活躍から振り返ってみれば、雌伏期とも言える1950年代の前半を本書(1955)に捧げたあと、『構造人類学』(1958)、『野生の思考』(仏語の「三色スミレ」、と語呂合わせになっている)(1962)、『今日のトーテミズム』(1962)と堰を切ったように、機知に富んだタイトルの野心作をものした。それらを奔出させるためには、この「悲しき熱帯」という栓を抜かなければならなかった。
 「栓」とは何を指すか。一つは、1940年の、彼がユダヤ人であるがゆえのアメリカへの逃避行で、ユダヤ人を異物とする迫害に対して、ユダヤ人であることを否定することはそうした迫害への正しい抵抗にならないにもかかわらず、否定された存在であることを受け入れて亡命することが彼を生き延びさせる現実とのあいだの、黙しがたい感情の膨張感。もう一つは、南米のインディオの中に入っていく民族学者が、インディオを異物として捉える行為の中で、自分自身が異物として、目の前の人々を鏡としてそこに現れることに対する、同じく、黙しがたい感情の膨張感。
 それを一気に書ききろうとして、ついに栓が抜かれた壜から溢れ出す、論理とイメージの奔流は、フィクションとノンフィクションの閾を超えて、西ヨーロッパの知性がもたらす圧倒的な力で迫る。あの水晶のように澄んだ論理展開を行うレヴィ=ストロースが、一度だけ自らに許した力強い混沌が本書である。イスラムに関する述懐の部分だけでも、十分に、読者の予想は裏切られる。

悲しき熱帯〈1〉 (中公クラシックス)

著者:レヴィ=ストロース、Claude L´evi‐Strauss、川田 順造  出版社:中央公論新社

悲しき熱帯〈2〉 (中公クラシックス)

心地いい「一杯のラム」

【山本壮 法学部4年】
 「悲しき熱帯」を読み終えて、僕はこの本、さらにレヴィストロース本人にある「親密さ」を感じた。
 この「親密さ」の感覚は、お酒の席などで、面識が無い人の話を聞いているうちに意気投合し、旧知の仲であったような気になる、という感覚と同じである。すなわち、他者のバックグラウンドや論理を分析する中で、我々は自分と相手を比較し、ある部分で共感する、あるいは差異を発見する。そのような作業の繰り返しの中で、我々は次第に他者の統一された人格の全体像をつかむことができる。これが「親密さ」を感じるという事であり、さらに言えば「他者を理解する」ということである。
 レヴィストロースが提示する「異なる論理体系を持つ他者の理解とは何か?」という問いは、まさに「悲しき熱帯」という本の構造そのものである、と僕は思う。この本は読者が、レヴィストロースの様々な旅や、それに関連する思考を追体験することで、彼の論理や世界観を知り、共有する仕組みになっている。他者理解を、我々はこの本の通読によって学ぶことが出来るのである。
 僕が感じる「親密さ」の表れとして(恋人とのノロケ話の様ではあるが)「悲しき熱帯」の一部分を褒める形で、書評を締め括りたいと思う。
 それは「一杯のラム」という章。ある社会に属する者が、他の社会を考察する際に生じる矛盾を語った章である。彼は、その矛盾の説明として、ラムの味の違いという視点を示す。工業製法のラムは生産性の追求から平凡で粗野な味、農業製法のラムは不完全ゆえに魅力的であり、味も繊細である。どちらの方向性も文明の道理に叶っており、それゆえに、ある社会における一つの価値規範の矛盾を明確に示している。自分の社会を抜け出して、他の社会を分析する者は、異なった方向性の価値を評価する、という矛盾と対峙する必要があり、答えを出さねばならない、というのがこの章の要旨である。
 ラムの味の違いという誰もが感じる身体感覚的でミクロな疑問が、「文明のパラドックス」ととらえ直され、社会を分析する手法というマクロな視点に繋がったとき、今まで見えてこなかった、新たな社会の全体像が現れる。レヴィストロースの論理を追うことによって得られる発見と興奮は非常に心地いいものであり、その心地よさに、僕は夢中になってしまった。

悲しき熱帯〈2〉 (中公クラシックス)

著者:レヴィ=ストロース、Claude L´evi‐Strauss、川田 順造  出版社:中央公論新社

ホーキング、宇宙を語る―ビッグバンからブラックホールまで (ハヤカワ文庫NF)

論理的探求の持続力に圧倒

【船曳建夫】
 ユーラシア大陸の西の地域の人々の、ギリシャに始まって数千年にわたる、この星空がどのように始まって、どのような姿を持っているのか、と 問う、その構えの大きさと持続力には常に感嘆する。そうした世界観、それに基づく人間観の徹底性は、世界の他の場所ではあきらかに薄い。
 たとえば、日本の江戸では化政文化の中、川柳、狂歌、錦絵が都市の生活を彩るように生み出されていた。しかし、それよりも前に、1783年 の英国で、片田舎のケンブリッジの学者が、『王立協会哲学紀要』に「十分な重さがあり物質が固くつまった星なら、光が脱出できないほど強い重力場をもつだろう」(p.123)と、ブラックホールを予見する論文を発表していた、というのには驚愕する。もちろんその頃の日本にも、算学はあったし、蘭学という一派が西洋の知を追いかけていた。しかし、18世紀の日本が生み出した金メダル級の高さは、官能に関わる浮世絵や歌舞伎のスペクタクルではあっても、合理性に基づく科学ではなかった。その後、近代化以降、日本は、いわば西洋近代の成果の肩に乗って「追いついたか」に見えるのだが、私は、この列島の「知」のあり方が、いまだ十分な厚みを持っていないのではないか、と疑う。
 宗教を西欧より200年も前の江戸時代に、そのアクを抜いてしまった日本は、「神」の問題を手早く切り抜けてしまったがゆえに、無限、永遠、といった絶対的概念と格闘しながら議論する力を失ったのではないだろうか。その差は、「科学」の分野ではむしろ見えないが、社会や人文的な知の、論理的な弱さとなって、いまもここにあるように思える。
 ケンブリッジでは、ホーキングは、長らく、すでにアイコンである。町の風景の中で、電動車椅子と、キーボードによる音声発生装置と共に生きている彼に遭遇すると、この西欧という地域の、「サイエンティスト」という、狂気をもはらんでいるかと見える知の、論理的探求の執拗さが、彼の姿に具現化されているようで圧倒されたものだ。

ホーキング、宇宙を語る―ビッグバンからブラックホールまで

発想の源にある純粋な好奇心

【塙孝哉 教養学部理科2類2年】

 原題にA Brief History of Time とある通り、時間の本性に対する見方が時代とともにどう変わってきたかを記しているのが本書である。アリストテレスやプトレマイオスに始まり、ガリレイやニュートンを経てハッブルやアインシュタイン、そして現在へと続く「宇宙、そして時間の捉えられ方」が、平易な言葉で描かれている。ブラックホールや素粒子、不確定性原理などが盛りだくさんに論じられているにも関わらず、E = mc2(2乗)以外の数式は出てこない。比喩やイメージを駆使して本質が示されていき、読者は優れた理論物理学者の発想法を垣間見る。難しい議論を動機づけているのは、幼いころ誰もが経験する、あの純粋な好奇心だ。
 「なぜ?」と問い続けてきた人類の軌跡。科学理論の進展によって「なぜ」と問う哲学と「何であるか」と問う科学が分離してしまったと著者は嘆くが、(本書を読む限り)科学の最先端は哲学に再接近しつつあるようだ。「なぜ宇宙はわれわれが現に見ているようなぐあいになっているのか?」という問い に「そういうぐあいになっていなかったら、われわれはここに居合わせていないだろうからだ!」と答えるような「人間原理」についての論述などは特に、世に 言うところの「科学」を超越しているように感じられる。
 「七〇年前には一般相対性理論を理解している人は二人しかいなかった。とはいえ今日では、何万人という大学卒業生がそれを理解しているし、何百万の人たちが少なくともその考え方に親しんでいる」と説く著者は、強気に本書を締めくくる。「もしわれわれが完全な理論を発見すれば、その原理の大筋は少数の科学者だけでなく、あらゆる人にもやがて理解可能となるはずだ。そのときには、われわれすべて—哲学者も、科学者も、ただの人たちも—が、われわれと宇宙が存在しているのはなぜか、という問題の議論に参加できるようになるだろう」。もしそのような時がくるならば(時の本性がなんであれ、そのような時がくることを望むが)このような試みがその礎となるように思われる。

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