羊たちの読書会 3

羊たちの読書会 3

 今回の3作は「奇妙」というテーマで選んだ。それぞれに異なる奇妙さなのだが、共通するのは、非常に引きつけられて読んだ後、さて、私はちゃんと読めたのだろうか、と内心、疑問がわくことだ。ちゃんと読めようが読めまいが楽しかったんだから、いいじゃないか、と思えない「奇妙さ」があるのだ。(船曳建夫)
    ◇
 「知の技法」シリーズの編者として知られる文化人類学者の船曳建夫・東京大名誉教授が主宰する「羊たちの読書会」の第3回は川端康成『みずうみ』、荒木飛呂彦『Steel Ball Run(スティール・ボール・ラン)』(『ジョジョの奇妙な冒険』第7部)、九鬼周造『「いき」の構造』の3点を取り上げます。文学部から医学部志望者までがいる東京大の1、2年生とそのOB・OGが集う名物ゼミ「儀礼・演劇・スポーツ」から発展した読書会で、さまざまな分野で活躍する、さまざまな年代の参加者が、大人の読書の楽しみを伝えます。
    ◇
 ふなびき・たけお 1948年、東京生まれ。94年、東京大学教養学部教授、2012年、名誉教授。専門の関心は、人間の自然性と文化性の相互干渉、儀礼と演劇の表現と仕組み、近代化の過程で起こる文化と社会の変化。編著書に、『国民文化が生れる時』(リブロポート)、『知の技法』(東京大学出版会)、『柳田国男』(筑摩書房)、『大学のエスノグラフィティ』(有斐閣)、『右であれ左であれ、わが祖国日本』(PHP新書)、LIVING FIELD(TheUniversity Museum, The University of Tokyo)などがある。

みずうみ (新潮文庫)

川端がとらえた「戦後」の本質

 【船曳建夫】
 この作品の奇妙さには、おそらく、作者の川端康成が「伝統的な美しい日本を描いたノーベル賞作家である」、という前提のようなものに、こちらが染まっていることがある。この作品に「伝統的」なものの持つ、落ちついた叙情があるのかというと、正反対なのだ。桃井銀平なる、通俗作品の思いつきのような名を持つ主人公が、あちらにふらふら、こちらにふらふらして、読者は心の落ち着き先がない。全編を通じて、間歇(かんけつ)的に現れる心象風景としてのふるさとの「みずうみ」は、むしろ主人公の気持ちを乱す。それでも読者は読むことを止められない。
 ここで私たちは、川端が、「新感覚派」としてデビューし、欧米文学の「意識の流れ」という手法を取り入れた「前衛的な作家」であることに思いあたる。破綻(はたん)しているようで、また、まさに無意識を装うかのようでいて、この作家は、読み手を真綿でくるむように包み込むと、粘液で絡め取る。いったい何を読まされているのか、一つ一つの筋に意味があるのか、と、ときおり疑問がわくのだが、気がつくと、体温と全く同じ水温であるためそれと気がつかぬみずうみの水中を、ただよっていることになる。その方向感のなさと、薄暗がりの明けなさは、昭和二十年代という「戦後」そのものなのだ。
 この川端自身が気に入っていた作品を三島由紀夫が嫌い、それを石原慎太郎がからかいながら、自分はこの不定形の小説が好きだ、と述べている。石原は、それを、芸術作品のとらえ方の違いととらえているようだが、それは外れている。おそらくそこには、「戦後」というものへの構えの違いがある。戦後を日本の退廃ととった三島と、そこをバネにのし上がった石原の二人。しかし、川端はそこに悲哀の美しさを見いだして、ただその空気感と時間の滞留するさまを描いた。そのようには見えずらいのだが、ここから『片腕』、『眠れる美女』と続くエロスの波動よりさらに深く、この作品は「戦後小説」であった、と振り返ることが出来る。戦後の日本文学界に、戦争小説はあっても、戦後小説はじつに少なく、この作品はそのまれな例だ。

英文版 みずうみ - The Lake

下り坂の時代の生き方

 【中谷基志 91年入学】
 「みずうみ」は、美しい風景や人情の描写で知られる川端康成の負の側面であり、陰鬱な堕落を描いた作品である。そのような先入見をもって本書を読んだ。
 読後の印象は全く異なるものだった。主人公の男は、幼少時にいじめられ、自分の足の醜さにコンプレックスを持っている。女学校の教師時代に、生徒と逢引して馘首になった。いい年になって、うだつの上がらない暮らしをしながら、時折、街で見かけた女性の後をつける。投げつけられたバッグの中の現金を届け出ず使ってしまう。少女の後をつけて、その恋人の学生になれなれしく話しかけて、殴られる。
 切れ目なく転々と移る視点や、人の隠し事をのぞき見るような描写は、安部公房「箱男」を思い出させたが、劇的な転換や頓狂な行為は登場しない。主人公は単に卑小なだけで、麻薬や犯罪、性に溺れることもない。現代を生きる自分から見て、卑小な主人公は等身大の自分に他ならない。むしろ、そのような卑小な生においても、淡々と流されていく主人公は、自分にはない達観を持っているように感じられた。
 主人公の姿からは、世に言う「痛い人」につきものの自己正当化や誇大な幻想が抜け落ちている。美化の余地はないが、暴力や犯罪に走る人物としても描かれない。そのような姿は、「下り坂の日本社会」を生きる自分の指標になるかも知れない。
 本書の初出は1954年。朝鮮戦争は始まっていたが、高度成長が始まるまでにまだ間がある、先の見えない頼りない世の中であったと読書会で知らされた。2012年が後から振り返ってどのような年になるのか、落ちていくばかりなのか、遠からず上がることもあるのかは分からない。ただ、ふたつの時代の頼りなさは心の中で重なった。
 今を生きるわれわれは卑小な生き方をあるがままに受け入れるのがよいだろうか。だとすれば、それはデフレ社会の中で流されることを肯定して、移ろいゆく人生になるだろう。そのような生き方を堕落だと批判し、あくまで経済・科学・芸術の高みを求めてあがくべきであるという姿勢も自分にないわけではない。あるいは「みずうみ」が「デカダンの美」として称えられたように、薄暗い世の中を彩る様々な歌舞・娯楽を手放しに喜んで過ごす生き方も想像できる。
 川端康成が発している問いは、半世紀後の日本を生きる自分の生の足元にも突き刺さっている。

スティール・ボール・ラン (1) ジャンプコミックス

圧倒される飛翔力

 【船曳建夫】
 この作品の奇妙さは、作者がマンガを描いていないところにある。荒木飛呂彦は、自分の内なる羅針盤の指す方向に進んでいるのだが、それが何であるかわかってはいないようだ。おそらく自分の才能が何であるかに拘泥する時期はとっくに過ぎーーその拘泥の期間が短いのは天才と呼ばれる人たちに共通しているのだがーーいまや、その脚が天馬と化しているのも気にかけず、筋肉の収縮にまかせてただ飛んでいる。
 これはマンガではなく、あるのは、画であり文章であり、別の水準で言えば、筋立てであり世界である。それらは、あたかもこの作品の場で初めて出会ったように、それぞれに独立している。それがばらばらではなく、一つの作品となっているのは、そう構成されているというよりは、私たち読者の方が、画と文章と筋立てと世界に圧倒され魅惑されているがゆえに、必死に一つのものとしてつなぎ合わせようと苦心しているからだ。作者の方は、<そうしたければ、ばらばらにしてくれてもいいのだけれど>、とさわやかに笑っていそうである。
 100巻をすでに超えたこの作品を、今回は、第7部の冒頭の2冊だけを選んで読んだ。そこにもすでに、ストーリーの伏線の広がり、群雄の順を追った登場の仕方の妙、といった、すぐれた物語に備わるべきものはすでにある。しかし、魅力はなんと言ってもこの画だろう。画が最初に目に飛び込んで、物語は、その世界の中を自在に進む。この「羊たちの読書会」では、「ジョジョ」を初めて「見た」のはいくつの時か、という話題が出た。初見が小学生くらいの幼さだと、『少年ジャンプ』の他のマンガと比べると、荒木の画は、凄(すご)みと立体感がグロテスクでさえあって、怖かったそうだ。それはちょうど、イタリアの聖堂の中で見るミケランジェロが、神秘や荘厳さとなって光る前に、肉のうごめきとして、私たちを釘付けにするのと同じなのだ。それは、この作品だけが持つ奇妙さであろう。そうした体験に逆らわずに従えば、「奇妙さ」は澱(おり)として溜(た)まることはなく、『ジョジョの奇妙な冒険』と共に、私たちも走り、翔(かけ)ることが出来る。

スティール・ボール・ラン (2) ジャンプコミックス

コマを読む快楽

 【T.T. 03年入学】
 1987年に連載が開始された荒木飛呂彦の有名漫画シリーズ『ジョジョの奇妙な冒険』は、漫画とは他の何物でもない絵と言葉なのだ、ということを改めてわれわれに気づかせてくれる。絵と言葉のそれぞれが、たぐいまれに強力な魅力を具えているからだ。ストーリーを語るためのメディア、というよくある関係が『ジョジョ』においては逆転し、むしろストーリーこそが絵と言葉に奉仕しているようにすら思われる。絵と言葉が発熱するための触媒としてのストーリー。この作品ではもはや漫画はストーリーの奴隷ではない。その強度は、フェティッシュな鑑賞に堪えるほどである(これは『ジョジョ』の持つ素晴らしい美点であるが、同時に、読者同士がセリフの断片だけをつぶやき合いうなずき合うような内閉的、排他的なやり取りを誘発もするだろうし、その「内輪ノリ」が潜在的読者を作品から遠ざけてしまうこともあるだろう。これは想像するだに残念だ)。
 『ジョジョ』シリーズのPart7に当たる『スティール・ボール・ラン』は大陸を横断する騎馬レースを舞台にしており、コマのあいだに流れる時間が読者に興奮をもたらす。つまり、コマを読む(≠セリフを読む)快楽が、そこにはある。映画においてカット割りが時間のリズムをアレンジするように、漫画ではコマとコマのつながりのなかに時間が語られる。騎馬レースは、作者である荒木本人が語るように、絵の美しさに資する題材であったのも確かだが、しかしその本質はやはり流れる時間にこそ求めたい。コマのあいだに流れる時間を、読者が各々の時間感覚において「再生する」ように読むこと。絵と言葉という要素を作品から切り出すことはもはや妥当性を失い、漫画という形式がその内容と渾然(こんぜん)となる読書体験。作品を受け取る際にそのような質を持った経験をすることは、いくつかの素晴らしいエンターテインメント映画の作品を想起させる。読者はそうやって夢中になり、『ジョジョ』によって気づかされた絵と言葉という漫画の要素分解を、『ジョジョ』によって忘れるのである。

ジョジョの奇妙な冒険 (1) ファントムブラッド(1) (集英社文庫―コミック版)

ジョナサンの強い身体

 【櫛谷夏帆 09年入学、美術史学4年】
 『ジョジョの奇妙な冒険』シリーズの強烈な絵、その魅力は第一に身体表現にある。
 一連の物語の始まりとなる第1部では登場人物の筋肉と身体能力、戦闘における強さが不可分であり、闘う身体は筋肉によって表されている。ミケランジェロを思い起こさせるたくましい身体をもったジョナサンと宿敵ディオの闘いは最後まで青春時代の殴り合いの延長であり、ディオが「人間をやめ」なければならなかったのは(直接のきっかけは別にあるが)ジョナサンの身体能力に対抗するために人間以上の力を手にするほかなかったからだ。第2部での「波紋」が飛び道具や奇策とともにある戦闘技術であるのに対し、ジョナサンの習得する波紋は傷ついた身体を癒やし戦闘能力を強化するものであり、重視されているのはやはり彼の生身の身体である。ディオの手下であるゾンビの崩れた醜い身体との対比によってジョナサンの完全な強い身体はさらに際立つ。
 ディオは生身のままではジョナサンに敵(かな)わず、吸血鬼になってもなお敵わなかった。首だけになった彼はジョナサンの身体を求めた。古代ローマには、神々や英雄の彫刻の首を外してそこに時の権力者の頭部像を載せる習慣があった。理想的な身体像に自らの頭部をつなぐことによってその者は神々や英雄のもつ聖なる力を手にすることができるのだという。ディオがジョナサンの身体を求めたのもこれと同じかもしれない。身体を失ったディオは、ジョナサンの強い身体を手に入れそこに自らの首をつなぐことによって、「帝王」にふさわしい聖性を手に入れようとする。
 第2部の敵となる「柱の男」たちはほとんど衣服をまとわず、吸血鬼さえ超えた生物にふさわしい美しい身体をあらわにしている。ここでは理想的な身体は主人公の側ではなくむしろ敵側にある。さらに「スタンド」が登場し特殊能力バトルがメーンとなる第3部以降、騎馬レースが描かれる第7部と、絵柄の変化と並行して作中における身体の扱いは変化し、多様化していく。それもまたこのシリーズの魅力のひとつであろう。

「いき」の構造 他二篇 (岩波文庫)

素直に向き合ってみると

 【船曳建夫】
 この古典と言われる書物が、これまでは、どうも、だまされている感があって仕方なかった。それは、もし、本書が以下の経緯で書かれているとしたらおかしいだろう、というものだ。すなわち、
 (1)ある俊敏な青年が、日本文化の「いき」という概念の玄妙さをどうにかして理解しようとして洋行し、西洋哲学を学んで、本書を書き上げた。問題が胚胎(はいたい)し、それを学問で解明しよう、とは本来そういうことであるはずだが、この場合は現実的ではない。1920年代のドイツに哲学を学びに来た青年が「芸者のいき」について究めたい、といいだしても取り合う学者もいないだろうし、本人自身、しだいにそのとんちんかんさに気がつくはずだ。(もちろんふつうは日本を船で発つ前に気がつく。)
 ならば、と次のように考えた。
 (2)ある、やはり俊敏な青年が、ヨーロッパの哲学を修めんと洋行し、当時のベルグソン、ハイデッガーに学び、サルトルを家庭教師(という話がある)とし、十分に認められ、帰国をした。しかし、1930年代の日本では、欧州で常識だったことが通じない。個人も世界も自由意思も、学んだ哲学の道具立てが、意味を成さない世界だったことを知り、絶望し、ならば、「芸者のいき」を取り上げて、書けるまで書いたあと、「なんちゃって」とパロディーであることを明かそうとしたら、みんなまじめに食らいついてほめるので、こけさせるのも「いき」ではないので、黙っていた。
 それでは、なんだか悲しい、と長らく思っていた。しかし、今回読んでみて、素直に、これは次のようなことなのだ、と思い至った。
 (3)ある俊敏・・(中略)・・帰国をした。日本に帰ってから「いき」という、感じてはいるがとらえがたい概念が自分の生活世界にあることに気づき、自分が学んだ哲学のツールで、正面から論じた。
 そう考えて読むと、それも丁寧に読むと、細部にわたって、「いき」の総体と、この分析が、一対一で、対応しているのだ。私はいまや、まったく素直に、この書を明晰(めいせき)な日本文化論として捉(とら)えている。「奇妙」であるとしたら、「日本文化」を論じながら、例外的にも、まったく印象や感傷に流されることなく、徹頭徹尾、論理的であること、その点においてである。

「いき」の構造 (講談社学術文庫)

「永遠の恋」の指南書

 【山本耕平 96年入学】
 人はいつか死ぬんだなぁということが言葉ではなく実感をともなって理解できるようになってきたころから、だから人は「永遠」に憧れるのだなぁとということが、同じく実感をともなってわかってきました。私にとって本書は、そんな「永遠」にまつわる書の一つです。
 本書では「いき」は三つの要素によって成立すると説明されています。まず最初に「いき」を規定するのが「媚態」です。異性の存在を認め、好きだ、一つになりたいという気持ちを持つこと、その異性に向かう態度が媚態です。しかし九鬼はこう言います。「異性が完全なる合同を遂げて緊張性を失う場合には媚態はおのずから消滅する」。つまり、一つになりたいという目的が達せられると「媚態」は消滅し、あとには「倦怠、絶望、嫌悪」がもたらされるというのです。それを避け、永遠に恋をし続ける方法は「距離を出来得る限り接近」しながら「極限には達しない」つまり、完全に一つにはならないことだと。
 この永遠の恋、永遠の媚態を実践するために必要なのが二つ目の要素である「意気地」と三つ目の要素である「諦め」です。「意気地」は江戸っ子の気質に代表される美学・ポリシーです。ときに異性を好きだという気持ちよりも美学を貫くことを優先する「武士は食わねど高楊枝」「宵越しの銭を持たぬ」の価値観。そこにこの世はつれないものだという運命に対する「諦め」が加わり、ついに「いき」となるわけですが、言い換えれば異性を求める「媚態」に、美学・ポリシーを貫く「意気地」で制限が加わり、運命への「諦め」によって達するのをやめるとき、恋が恋のまま「永遠」を獲得できるのです。
 ここまでの内容は本の中ではまだ前半で、その後は「いき」とその周辺の言葉との比較、どんな振る舞いが「いき」なのか、「いき」の芸術での現れ方など、具体的で面白い話が続きますが、私にとっては、やはり本書は「永遠の恋」についての指南書なのです。

「いき」の構造 (九鬼周造全集 第一巻)

「いかに読むか」からの学び

 【小池淳太郎 05年入学】
 本書を閉じる姿がもっとも様になる読み手は、「いき」に入門するつもりで本書を繙き、時折頷きながらも平熱で結句まで読み進めたのち、「いき」を既にして「分かっていた」のだなと、過去完了の気付きを得る人だろう。彼女ないし彼は、今の世を生きながら、何事かを「諦め」、しかし「意気地」を保って「張りのある」齢の重ね方をした人のはずだ。
 読書会の場では例えばコリン・ファースの出演作への言及なども通して、徐々に「いき」の輪郭がたどられ、会も終盤に差し掛かると、幾人かの参加者からは、自らが直に知るいきな人物の立ち居振る舞いが問はず語りに示された。手応えある学びだった。
 しかしながら、入門時にして免許皆伝という冒頭のケースを除くなら、著者を師匠と仰ぐ門人の道はなかなかに困難だ。いくら息を詰めて構えても、通読する内に、くくっとふき出す箇所が一度ならず訪れる。九鬼師匠、どこまで本気か分からぬのである。
 だが、辛抱強い門人になれぬとき無意識に取りがちな読者モードもまた本書の拒むところだ。読者として読み出したら、読み終えたときには「いき」が分かっていなければならぬ。しかし、「分かった」は「いき」から遠い。本書の中で目につくのは、切れ味鋭い原理的な分析だが、これこそが「いき」なのだと、やたらめったらに振り回せば、それは「野暮」。その切れ味をあえて留め、拵えを「派手」や華美にまでゆかせないすっきりとした「垢抜け」こそ、「いき」の一つの要諦だ。
 よき門人の道は絶たれている。とはいえ「分かった」と短絡する野暮だけは避けたい。苦肉の策で、私は、九鬼先生から草稿段階の原稿を預かった編集者の心持ちで読んだ。すると、浮かんだ疑問を抑え込まずに、しかし素直に読めた。読むに値する古典を、今に生きる人間なりに読む一つの方法かもしれない。
 (附記)私にとって本書が持った問いを受け止めながら、以上のように結んだ。その後、読書会に付随した学びから、次なる問いも重く感じたので此に記す。
 私の「上品」なまとめこそまさに九鬼が「二元性の欠乏」と呼ぶものだ。この事実は受け止めるしかない。ただ、何かを手放さずに持ち堪えることがあるなら、それは私に可能な限りでの「二」に近いものかもしれない。離さずに持つ何かとして、生い立ちの異なる友人と書くと面映ゆいので、例えば古典や外国の文学と書いておく。

Facebookアカウントでコメントする

ページトップへ戻る

ブック・アサヒ・コム サイトマップ