羊たちの読書会 4

羊たちの読書会 4

 日本の「詩」について考えてみようと3冊を選んだ。日本人の精神生活の中心には『万葉集』以来の和歌がある。『聖書』や『コーラン』が、世界の成り立ちを説明して、どう生きるべきかの規範を示すのに対し、和歌の伝統は、人間と世界との関係を表現し、どのように生きるのがよいかの方法を示す。キリスト教、イスラム教の膨大な神学が、聖なる言葉を千年を超して解釈し続けるように、無数の日本人は先人の歌を引用し、変奏し、自己と外界の調和を目指して、いまに至るまで同じ「五・七・五」の形式の詩を作り続けてきた。正しく生きる、というより美しく生きることが世界への最もよい構えであるととらえたと言えるだろう。
 『万葉集』の始まりから1400年後、私たちのいまに生きている「詩」の、それぞれの生きている理由や意味を問うてみる。(船曳建夫)
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 「知の技法」シリーズの編者として知られる文化人類学者の船曳建夫・東京大名誉教授が主宰する「羊たちの読書会」の第4回は谷川俊太郎『二十億光年の孤独』、関川夏央『現代短歌 そのこころみ』、松尾芭蕉『おくのほそ道』の3点を取り上げます。文学部から医学部志望者までがいる東京大の1、2年生とそのOB・OGが集う名物ゼミ「儀礼・演劇・スポーツ」から発展した読書会で、さまざまな分野で活躍する、さまざまな年代の参加者が、大人の読書の楽しみを伝えます。
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 ふなびき・たけお 1948年、東京生まれ。94年、東京大学教養学部教授、2012年、名誉教授。専門の関心は、人間の自然性と文化性の相互干渉、儀礼と演劇の表現と仕組み、近代化の過程で起こる文化と社会の変化。編著書に、『国民文化が生れる時』(リブロポート)、『知の技法』(東京大学出版会)、『柳田国男』(筑摩書房)、『大学のエスノグラフィティ』(有斐閣)、『右であれ左であれ、わが祖国日本』(PHP新書)、LIVING FIELD(TheUniversity Museum, The University of Tokyo)などがある。

二十億光年の孤独

すーっと流れる時間をつかむ

【船曳建夫】
 時間が、一貫したテーマであり、詩情である。その時間は、「戦後」といった短いスパンからは遠く離れている。なんといっても、光で飛んで「二十億年」かかるのだ。それはたんなる伊達なことばではない。
 目をつむって、すーっと流れる時間、それを感じ取ることが、谷川さんの生涯変わらぬ、特質だろう。父親とその友人の詩人が、十代の少年のノートに書き付けられた言葉に驚く。60年後、僕らも同じ驚きを持つ。きっと、二十億年ののちの存在もこの詩集に「ネリリし、キルルし、ハララ」するのだ。
 この詩集にないのは、若い僕らの足を泳がす、あの恋愛という名の混濁だ。どこにも硬直した欲望や、発酵した妬みや、沸騰した怒りがない。ただ、「メス」という一編だけが、理屈っぽい若者の、理屈で統御できない存在への、全面的な降伏を伝えて清々しい。
 告白すれば、僕はいままでに二回もこの詩集に失敗している。最初は若い頃、この詩集、というかこの詩人の素直さを臆面の無さと感じて、自分で遠ざかったのだ。二度目は中年の頃、この詩人の他の詩集の端正さと米粒のような美味しさを愛して、この『二十億光年の孤独』を未熟な詩集と思ってしまった。いまでは、そんな成熟や未熟といった時間概念が、この詩人には無縁なものだと分かる。老いてゆく美しい女形が、口上で、こういう意味のことを言った。
 「宇宙の中の存在でありながら、その宇宙を内側の感覚で感じ取ることが出来る私たち。しかし、時間という自然の前で人間は、ほんの瞬きのようなものでしかありません。ですから、私にはもう怖いものはないのです。」
 この「ですから」の強さは、谷川さんの強さだ。

二十億光年の孤独 (集英社文庫)

ひと呼吸の距離が生む尊さ

【新竹美奈子 07年入学】
 私は去年、谷川さんご本人による朗読会に参加しました。薄暗い小ホールで100人弱の観客が体育座りなどしてまばらに谷川さんを囲み、詩を聞きます。話し手と聞き手は、「ひと呼吸」程度の物理的距離圏内に居て、「ひと呼吸」程度の平易で短い詩が朗読されました。それによって、話し手の、身体から呼吸が生まれー呼吸から音が生まれー音から言葉が生まれる、という日常的な一つ一つのフェーズが非日常的に際立って見えました。星を見たときのような、雪を見たときのような、概念の遠隔操作を必要としない必然の「本当」が、そこに在るように感じられたのです。その尊さに、私たち聞き手も、全身で呼応していました。
   
 ひと呼吸の距離が「本当」を作り出す、という構図は本書にも見られます。例えば私の好きな詩の一つに「絵」があります。



わたれぬような河のむこうに
のぼれぬような山があった

山のむこうは海のような
海のむこうは街のような

雲はくらくーー
空想が罪だろうか

白いがくぶちの中に
そんな絵がある

 前半では、絵について、「海のような」など、「ような」が連続的に用いられ、イメージが広がります。第三連では、「雲はくらくー」と、「ような」が途切れ、イメージが定まるかにみえます。そして「空想が罪だろうか」と、イメージの広がりや定まりの自由が認められます。実際の風景・絵描きの視点・書き手の感情・読み手の思い、そのいずれも傷つかないよう配慮しているのです。絵を「難しい」と言って突き放す諦めや、我が物顔で語る傲慢さは微塵もありません。
 ここで気付かされるのは、正確で誠実な描写を徹底することで、書き手は対象と読み手のそれぞれに、ひと呼吸の敬意ある距離を保っているということです。それによって、対象ー書き手ー読み手の三者は、ひと呼吸間隔の三角関係で結ばれます。結果として、読み手も対象に、ひと呼吸の距離まで迫ることができるようになるのです。そうして対象も、尊い「本当」として立ち現れてくるのです。

二十億光年の孤独 (関東学院大学人文科学研究所研究選書)

非凡なまでのバランス感覚

【野村英生 法学部4年】
 すべり出す明るい色の新型車
 J・P・サルトルの実存主義
 そして泡立つ一杯のアイスクリイム・ソオダなど―
 すべては沈んでゆき
 ただそれこそ澄明な秋の高原だけが
 ひそかに僕を抒情した

 雲に近い街―
 午後の海は
 たちまち一枚の絵葉書である
 (本書所収「郷愁」より抜粋)

 谷川俊太郎は、若者が若いがゆえに惹き付けられていく魅惑の数々から距離をとり、あくまで美しい風景の中に溶け込んでいくもろもろのうちの一つとして扱う。この詩に限らず、当時18歳にして、これほどまでに等身大で「世界」を描き出す。この瑞々しい感性こそ、非凡な才能と呼ぶべきであろう。
 ところで「天才」という言葉には、「若き」という形容詞がつくことが多い。既存の社会になじんでいないが故に、常識を踏み超えた発見、発明、思索で、社会に未知の驚きを与える。あるいは、社会の実相を巧みに切り取り、社会に大きな共感を与える。いずれにせよ、天才と呼ばれる人には「社会を超えたもの」(新型車のごとき最新技術!)、あるいは「社会の奥底にあるもの」(最先端の思想!)のどちらかへと尖っていくモーメントがあるように思う。そして、残った天才ではない若者は、社会を知らないが故に、恋だ愛だ、そしておいしいもの(一杯のアイスクリイム・ソオダ!)―そうした目先の私的領域に閉じこもり、やがて社会と同化していく。
 ここまで考えて、改めて「郷愁」を読み返すと、天才たちが誘われるどちらの極にも彼は尖っていっていないことが分かる。かといって、私的領域に引きずられもしない。だからこそ、秋の高原や海の美しさに虚心に抒情できる境地に辿り着けるのだ。彼が有名な哲学者を父に持ち、戦後社会の急速な復興を目の当たりにしていたことを考えれば、彼のバランス感覚には、畏れすら感じさせる。その意味で谷川俊太郎は、「天才と平凡な若者」という区別を踏み越えていく非凡さを備えた、いわば亜種の、詩の天才なのだろう。

現代短歌そのこころみ (集英社文庫 せ 3-5)

言葉を忘れてもリズムは残る

【船曳建夫】
 昭和戦後史を、政治的事件の連鎖として、また、流行り物の変遷で書くことも出来る。関川さんは、戦後のある時点、1954年を一つの明確な出発点として、それ以降こころみられてきた短歌の表現のさまざまなかたちと、それを選ばなければならなかった個人たちの、さまざまな生を描くことで、日本列島の戦後を叙述した。どの章を取っても、まことに力のある文章と、論理である。著者自身の、歌の断念を口にしない、その矜持が本書には一貫している。
 短歌の上に輝きつづける歌人もいる、土岐善麿、岡井隆、穂村弘。短歌の中に一瞬の光芒をきらめかせ、消える歌人もいる、中城ふみ子、村木道彦、岸上大作。しかし、歌人が消えても消えなくても、短歌の方は生きながらえる。また、寺山修司のように、生きながらにして歌人としては消えていたかのようでありながら、死んでみると誰もが口ずさむ歌の作者として残るときもある。
 消えたり残ったり、思い出されたり忘れたり、それは、歌人を主語として考えるとそうなのだ。かといって、歌、そのものを主語としても、作者不詳が生きながらえる要件であったりはしない。口ずさまれるのも、歌われなくなくなったりするのも、時の過ぎゆくままの、運であったりする。ただ、残り続けるのは、そのリズムだ。五七五のリズムがこの列島に残る。
 下の七七、「そこ過ぎてゐるしづかなる径」だけが頭の中にありながら、上の五七五が出てこない。ただ、それはリズムとして、胸の中に鳴るだけ。言葉がなくてもリズムだけがある、それが、短歌というもののあり方の核心だろう。
 だから、そのリズムにより、つ、と歌が口から発されたとき、人は不意に歌人となる。


現代短歌 そのこころみ

5年前の「好きな短歌」は

【澤藤りかい 07年入学】
 1冊の本を2度読むことはあっても、1冊の本を2度読書会で取り上げることはあまりないだろう。5年前、私はまずこの本で船曳ゼミの「洗礼」を受けた。その時は毎週何十ページかを各自で読んできて、皆でその感想を言い合う形式であった。まず始めに先生に言われたことは、「好きな短歌を2回音読しなさい」。好きな短歌? ただ淡々と本を読んでいた私はそこで戸惑ってしまう。どう「正しく」読むかを受験勉強で詰め込まれたお陰で、自分の好き嫌い、という意識が全く抜け落ちていたのだ。それからはとにかく、少しでも気になった箇所を探していく。沢山の線が引かれるのと同時に、この本の面白さにも惹かれていく。現代短歌を通して、1950年代から80年代までの社会の様子がみえてくる。学校で習う日本史よりずっと刺激的で心に迫る『川鮭の紅き腹子をほぐしつつひそかなりき母の羞恥は』という衝撃的な中城ふみ子の短歌があると思えば、『「酔ってるの?あたしが誰かわかってる?」「ブーフーウーのウーじゃないかな」』なんて軽やかで自由な穂村弘の短歌がある。それから短歌に劣らず筆者の言葉がいい。特に第2章の「閉じきらぬ円環」はここだけでも読む価値があるほど上手い。題名と結びの文に全体が包まれているような充足感が得られる。
 そして2度目、私は再びこの本を手に取る。相変わらず面白いけれど、以前線を引いた短歌にピンと来なくなる。私も変化しているのね、と感慨深くなる。今回の読書会では、いつものように好きな短歌を2回音読し、短歌と俳句の違いについても話し合った。例えば皆で歌を作ってきたとして、俳句は下手でも笑えるけど、短歌は笑えないよね、と。短歌は言葉の一瞬の輝きを力強く表現できる一方で、気持ちが入りすぎて時に痛々しく感じることもある。歌人が歌人であり続けるのは大変な努力が要るのであろう。『歌は愛誦され、歌人は消費される』と筆者は言うが、少なくともこの本の中では、歌人たちは消費されることなく、輝きを保ったままそこにいる。

子規、最後の八年

関川夏央の詠んだ「歌」

【田辺 啓悟 12年入学】
 疲れてはふたへまぶたとなるときに、 春 重重し 春 燦燦し
 「緋の椅子」で1965年に歌壇デビューした村木道彦の歌である。22歳を頂点として「徐々に下降」し、20年以上苦しんだ末に得た一首。「疲れては」というのは、このことを反映しているのだろう。そして下の句で「春」が登場する。
 なぜ「春」なのだろう? 鮮やかな歌が苦もなく詠めた22歳の頃を動作性のあるもの(例えば「花火」)ではなくて状態的な「春」と回想したことで村木はやや矛盾していると初め感じた。自身のかつての成功を「した」ことでなく、「である・であった」ことに還元してしまうと、待っているのは「自己模倣」や「袋小路」である。忘我を試みた村木もこのことを自覚していたはずだ。
 往時が春夏秋冬の春と表現されたことには、村木が過去と現在との間で感じた断絶が現れている。この歌について考え直してみて、私はそう思う。抱く想いは人それぞれだろうが、かつてを村木のようにある状態として捉えてしまうこと自体は珍しいことではない。過去が春のように良い状態として捉えられることで現在もまた一つの「状態」に還元され、二つの状態の間に非連続性を見てしまう。このような形で非連続性を感じながら生きるのは孤独なことだと思う。
 この本はこうした歌人達の生と歌とに迫り、味わう、具体的な本である。
 関川夏央は現代短歌の歩んだ道を叙述するにあたり、多くの歌人達の生をつぶさに見ている。その原点には、日本近現代史を、文芸表現の推移を点検することで再構成したいという志があるようだ。そしてその成果の一つが、小説家であり短歌雑誌編集者でもあった中井英夫の新人発掘企画を以て現代短歌のこころみの始まりとする本書の主張である。本書で関川が歩んだこのプロセスは、冒頭の村木道彦を始めとする歌人達が自分自身を投影しながら自身の一部分を切り出し、歌に昇華するプロセスのようだと私は感じた。思うに、本書は作歌をしない関川の詠んだ一つの「歌」なのだろう。

芭蕉 おくのほそ道―付・曾良旅日記、奥細道菅菰抄 (岩波文庫)

俳句に瞬発力を与えた「旅」

【船曳建夫】
 ドナルドキーンに、古い時代の日本人の旅日記が、ほとんど古人が訪れたところだけを「追体験」しようとしているものだとの指摘がある。この『おくのほそ道』もほとんどそのようだ。出発からすでに、西行、宗祇と自分を引き比べて、その後を追おうとしている。だから、その道中の描写はそれほど 面白いものではない。よく読めば、いくつか、旅がもたらす偶然や、旅行プランの蹉跌によって、それまでの定型の詩情では無いものも現れてはいる。宿がなかったので、「蚤虱馬の尿する枕もと」に寝なければならなかった、とか、「一家に遊女もねたり萩と月」のように思いがけない出会いがあったとか。しかし、作者にそれを散文として書き続ける強い意志はない。
 この本の価値は、ここに出てくる俳句の素晴らしさだ。地の文はその俳句たちが生まれる経緯を示してくれている。しかし、その経緯とは、事実に基づいてはいようが、自然に見せかけ、盛り上げるためるために、芭蕉によって選ばれたコンテクストである。だから広い意味でのフィクションである。
 芭蕉の詩は芭蕉の頭の中で作られたのであり、それを自然に見せかけた地の文で、事実の方に落とし込んでいるのだ。「閑さや岩にしみ入蝉の声」というアイデアは、手だれの俳人なら、冬のこたつの中でもひねり出せる。それを、無意識の中に泳がせておいて、立石寺の夏の風景の中で、瞬発するように自分をそこに持って行く。その持って行く「旅」という拵えがこの『おくのほそ道』という一編の書き物なのだ。この、誰にも到達できない詩と文の化合の力が、この本をいまに生かしている。


おくのほそ道 新潮CD

抑制された表現が生む豊かさ

【中金さやか 03年入学】
 「松島は笑ふが如く、象潟はうらむがごとし」
 奥の細道は俳句もいいけれど、地の文も負けてない。特に風景の描写は、ぴりりとしている。短いフレーズで浸透具合が抜群にいい。どこに行った、どれくらい歩いた、誰と会ったというような淡々とした文章が続く中に、冒頭のような表現がふっと織り込まれたら、もう参ったという気持ちになる。
 風景を人に伝えるのは、普通は難しい。風景はきりがないからだ。空の色、光の具合、聞こえてくる音、体に触れる風、土地の匂い。残さず丸ごと説明しようとすると、どこまでいっても言葉が風景に追いつかなくなってしまう。芭蕉は、そこを丸ごとなんて欲張らずに、一部だけを言葉にする。結果、逐一説明しているよりもはるかに伝わりやすい表現になっている。なんとも心憎い。
 奥の細道で書かれている内容は、芭蕉のものの感じ方に尽きる。なにを見て、なにを知って、どう感じたか。芭蕉はこの感じ方を伝えることが、とても上手い。感じ方も風景と同じく、説明しようとするときりがない。そこを芭蕉は抑えて表現する。たとえば、「泪(なみだ)を落し侍りぬ」といった表現でも、どういった風に心ゆすぶられて泪が出たのかは、くどくどと書かれない。あえて余白を作る。言葉の余白を作ることで、読み手は言葉に必要以上にとらわれずに、芭蕉の感じ方を推察し、結果、より芭蕉の感性に近づいていくことができる。
 言葉は、言葉以前のところに辿り着くための誘導サインにすぎない。それでも、時々私たちは誘導サインを目的地と勘違して、本当の目的地に辿り着けないことがある。奥の細道について書きながら、そんなことを思った。

短歌パラダイス―歌合二十四番勝負 (岩波新書)

短歌の面白さ 俳句のわからなさ

【南朝香 06年入学】
 ここに紙幅を頂いているのに恐縮極まりないのだが「おくのほそ道」を読んだとき、何が面白いのかよくわからなかった。もちろん「おくのほそ道」は古典的名作と言われていて、きちんと読めれば面白いに決まっている(でなければ今日まで残っていない)のだから、わからないのは私の責任だ。そのわからなさについてこれから書こうと思う。

 そもそも私は俳句のよさというものがよくわかっていない。一方で、短歌はかなり楽しくよむ。私が短歌を面白がるようになったのは小林恭二氏の「短歌パラダイス」がきっかけだ。この本、読書会では取り上げられなかったけれども、私はこれを読んで短歌熱にとりつかれたので、現代短歌入門にぜひおすすめしたい。現代版歌合(うたあわせ)の記録で、歌人が短歌に批評や解釈をしあう様の実況は極めて愉快。小林恭二氏の丁寧な解説が秀逸で、読者が置き去りにされる心配はない。日常をくるりとひっくり返したような現代短歌は一度ハマるとやめられない。

 短歌はわかりやすく面白いのに、なぜ俳句はわからないのか。俳句と短歌の違いは末尾の七七だけとも言えるのだが、ほんの十四文字の違いによって、その性質を全く異にしている。短歌はそれ単独で世界が完結する箱庭のようなもので、俳句は世界への扉をひらく鍵のようなものだ。つまり短歌は受動的にそれ自体の世界を楽しむことができるけれども、俳句をよむときにはその背後の広がりへ自分の思考を広げていく能動的態度が必要になるといえる。
 更にいうと、短歌は個別的なことをうたうが、俳句は世界に普遍的なことをうたう。これが俳句に対する能動的態度の獲得をより困難にしているように思える。自分の心にひきつけなければならないのに、共感のきっかけとなる具体性は排除されているわけだから。

 芭蕉と私が共有できるものは何なのか。「おくのほそ道」からどんな世界を見渡せるのか。足らぬ考えをめぐらす。旅の孤独にヒントがあるような気がするが、まだ定かではない。これを見つけられたとき「おくのほそ道」を面白いといえるのだろう。

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