池田理代子さん 45年の「劇画家人生」ふりかえる

[文]朝日新聞出版  [掲載]2012年09月21日

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池田理代子さん

表紙画像 著者:朝日新聞出版  出版社:朝日新聞出版

 2012年、少女マンガの傑作『ベルサイユのばら』が40周年を迎えました。著者である池田理代子さんにとっては、1967年に「バラ屋敷の少女」を少女誌に発表して以来、デビュー45周年の節目の年となります。これまでの仕事を1冊にまとめた朝日オリジナルムック『池田理代子の世界』(朝日新聞出版)から、池田さんのロングインタビューの一部をご紹介します。

■出版社に持ち込んだら、「話にならない」

 1947年、大阪市東淀川区で生まれた池田さんは、両親、妹、弟2人の6人家族の長女として育った。少女の頃から本やマンガを読むのが大好きで、気が付けば空想にふけっていた。授業中であろうと構わない。いったん空想癖が始まると、トイレにこもったまま夢中になり、戻ってこない。心配した先生が、探しに来ることもあったという。
 絵を描くのも好きだった。家の前の地面に「ろうせき」で落書きをし、海賊に捕らわれたお姫様や白馬に乗った王子様を描いた。絵を描きながら即興で語る冒険劇や異国の物語に、近所の子どもたちは熱狂した。
 大学進学を後押ししてくれたのは、母だった。「女に学問はいらない」という父を、高校の先生と一緒に説得した。父が出した条件は、「国立大学に現役で合格すること」「学費は1年間分しか出さない」と厳しかったが、1966年に東京教育大学(現・筑波大学)哲学科に入学した。入学直後から、学生運動にのめり込んだ。「親に食べさせてもらいながら、学生運動をする矛盾が許せなかった」と、大学1年の秋に家を出て、自活を始めた。

――自分で学費と生活費を稼ぐと決心して、家を出られましたが、お母様はどんな様子でしたか。
「人生でいちばんショックな出来事だった」と言ってました。「自立しますから」なんて置き手紙が残してあったものだから。もしかしたら、その時に「自分の手を離れていった」と思ったのかもしれない。

――さまざまなアルバイトを経験なさったそうですが、結局、マンガに向かわれたのはなぜでしょう。
 工場に働きに行ったりウエイトレスをしたり、いろいろやりましたけど、人付き合いが苦手で、しかも毎日、職場に通うのも絶対にできないと分かった。とにかく人と会わないですむ職業はないかと考えた時に、「これだ」って。

――デビューするために、具体的になさった活動はありますか。
 出版社への持ち込みです。64枚のストーリーマンガを描いて、すぐ載るんだとばかり思っていたら、こてんぱんに言われました。集英社は「話にならない」って、けんもほろろ。講談社は「筋が良さそうだから勉強してみませんか」って言って、(貸本の)若木書房を紹介してくださった。1冊200枚描くと2万3000円がもらえたので、がんばれば何とか暮らしていけるかなって感じでした。

■少女誌で社会派作品 描きたいものを貫く姿勢

 1967年、「週刊少女フレンド増刊」(講談社)に掲載された「バラ屋敷の少女」で雑誌デビューをした。大学3年生だった。次作からは掲載誌を「週刊マーガレット」(集英社)に移して、着実にキャリアを積んでいった。初期の作品では、学園ものや少女の成長物語に交じって、社会問題に目を向けた作品が目につく。原爆症を題材にした『真理子』(1971)、貧しい一家が無理心中を図る『ごめんなさい…』(1971)、さかのぼって貸本時代、最初に描き下ろした『由紀夫くん』(1967)も、原爆症を扱った作品だった。

――原爆症や性同一性障害などをテーマにした社会派の作品も多いですが、こうしたテーマを少女誌で取り上げることに、編集部が難色を示したことはありませんでしたか。史劇である『ベルばら』が、編集部の反対に遭ったことは有名な話ですが。
 部落問題、この題材は没にされました。「次の読み切りは何ページです」と言われたので、描いて持っていったら、没。私は部落問題に対して、部落の側から「こういう差別はいけないのではないか」ということを描いたのですが、どちらにしてもダメだと言うので、「表現の自由があるのだから、編集部もそのくらい腹をくくってくださいよ」って言ったんですけど、認められなかった。
 あと没になったのが、ロスチャイルド家(18世紀に台頭したユダヤ系財閥)。ロスチャイルド家が金貸しから今のように事業を広げていった過程を描いたのですが、けっこう描き進めた段階で、どこからか圧力が掛かったのか、ダメになりました。だから世に出ていない。「ああ、触れてはいけないのだな」と思いました。

――では、反対されても世に出たものは、『ベルばら』だけですね。
 そうですね。当時、編集さんによってはね、歴史ものを描きたいと言うと、「過ぎた歴史のことを取り上げて何になるの」って言う人もいたんです。だから、「あなたのように思うのだったら、歴史そのものが何の意味も持たないじゃないですか」と、大げんかしたことがありますね。

■『ベルばら』の大ヒット 世界が変わった瞬間

 スケールの大きな作風と豊かな表現力で、作品を発表するごとに読者の支持を獲得していく。その実力が編集部でも高く評価され、長編連載の依頼が来る。高校生の時に、シュテファン・ツヴァイクの『マリー・アントワネット』を読んだ日から、いつか何かの形でアントワネットの生涯を描きたいと思っていた。温めていた構想をぶつけた。1972年、『ベルサイユのばら』の連載がスタートした。24歳だった。

――『ベルばら』は、何世代にもわたって読み継がれる「古典」になっています。
『ベルばら』を連載していた時に、「この作品はお嫁に行く時に持っていきます。女の子が生まれたら読ませます」という手紙をずいぶん頂いたんです。それから何十年か経って、第二次『ベルばら』ブームのようなものが来た時に、「お母さんに薦められて読みました」という手紙をもらったのが、すごくうれしかったですね。同じ母娘からなのかは分からないですけど、「お母さんが大事に持っていたものを読んで、すごく感動しました」っていう感想がうれしくってね。今は、孫ね(笑い)。それにね、『ベルサイユのばら』は、学校の先生が初めて、「これを読みなさい」と薦めてくれたマンガ作品なんじゃないかと思いますしね。今ではヨーロッパや東南アジアでも翻訳され、海外にも熱狂的なファンが多いんですよ。

――日本人が異様にフランス革命に詳しいのも、間違いなく池田先生のおかげです。
 連載終了後に初めてパリに行った時、半日ツアーでヴェルサイユ観光のバスに乗ったら、ガイドさんが私のことを話していましたね。「日本の若い女性が、ここを舞台にしたマンガを描いた」って。もちろん、向こうは私のことは知らないんですけど。あとね、日本人女性の現地ガイドさんが、日本の状況を全く知らなかったものだから「日本人観光客が『オスカルって本当にいたんですか』って尋ねてくるんですけど、オスカルって誰ですか」って聞かれたことがありますね。

■少女誌から女性誌へ 等身大の現代女性を描く

 80年代に入ると、少女マンガ誌から大人向けのマンガ誌や女性誌へと、発表の場を広げていく。『ベルサイユのばら』を読んで成長した少女たちが、同時代を生きる等身大の女性たちの物語に、自分の人生を重ね合わせた。
 30代だった池田さんも、人生の岐路に立っていた。36歳の時、プライベートなことで世間の注目を集め、精神的に追い詰められた。40代になると、更年期障害に悩まされた。「本当にやりたかったことは何だろう」。自問自答し、たどり着いた答えが音大受験だった。幼いときからピアノを習い、高校ではブラスバンド部でトランペットを演奏しており、ピアノと声楽で音大受験を目指したこともあった。

――1995年、47歳で音大に入学し、夢を実現なさいましたね。
 その頃は音大ではなくて、自分の最初の大学(現・筑波大)へ戻って社会学をやりたかった。仕事が忙しくなって、大学を7年で中退したものですから。でも、37歳の時だったかな……。ドイツに語学留学に行ったので、そのままドイツの大学に入ろうと思っていました。行く前に、ある程度マンガは描きためていましたけど、結局4カ月の休みを取るのが目いっぱいでした。

――85年ですね。週刊誌の頃に比べるとペースは緩やかになったとはいえ、4カ月も休むのは大変だったのではないでしょうか。
 本当は、帰ってくるつもりはなかったんですけどね。その頃はマスコミにいろいろたたかれていた時期で、日本がものすごく嫌いだったんです。4カ月ほどドイツにいる間に、「ヨーロッパはなんていいんだろう」って。まず一つに、30代歳半ばを過ぎた女性でも、きちんと仕事をしているということで尊敬して扱ってくれる。日本はね、その当時、35を過ぎれば、もうおばさんだといわれていた。マスコミにはあることないこと書かれて、日本も日本人も本当に嫌いになっていた時期でした。

■マンガ家を辞める決意も 名物編集長の一言が救い

――なぜ帰国を決意したのですか。
 やっぱり、妹とか、いろんな人の顔が浮かんだんでしょうね。自分が仕事をするのを待っている人たち、っていうのかな。実はドイツへ行く前に、山本編集長に「私はもう仕事を辞めるから」と言ったんです。

――当時、「フォアレディ」の編集長をしていた山本順也さんですね。
 そうです。編集部に「あんな女に仕事をさせるな」という電話や手紙が殺到していたそうなんですよ。そのときに山本編集長がね、「あなたは、本気でそうおっしゃっているんですか。一人の女性に仕事をさせるなっていうのは、その人の人生をやめさせることですから重大な問題ですよ。編集部に来て、ゆっくり話し合いましょうよ」って言ってくれたんです。

――素晴らしいですね。
 当時、私はまだ千葉県柏市にいたんですけれど、山本編集長が「ちょっと話があるから出てこいよ」と言って、家の近所の喫茶店に呼び出されたのね。そうしたらね、「何、もう仕事辞めたいんだって? あのなぁー、あんたの原稿料たけえんだよ。あんたの原稿料で、中堅が2~3人雇えるんだよ。でも、あんたじゃなきゃいけないんだよ。その理由分かるか」って言って、帰っていったの。かっこいいでしょ(笑い)。それがドイツに行く前のことです。すごくうれしかった。そういう人たちの顔が、浮かんだんです。

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 池田理代子(いけだ・りよこ)さん。劇画家、声楽家。1947年12月18日、大阪生まれ。東京教育大学(現・筑波大学)文学部哲学科中退。大学在学中に劇画を描き始める。1972年に集英社「週刊マーガレット」で連載を始めた『ベルサイユのばら』が大ヒット。1500万部以上を売り上げ、舞台化、アニメ化されるなど社会現象となった。1980年に『オルフェウスの窓』で日本漫画家協会賞優秀賞受賞。長年にわたる日仏文化交流への貢献により、2009年にフランス政府からレジオン・ドヌール勲章(シュバリエ)が授与された。1995年、47歳で東京音楽大学声楽科に入学、卒業後はソプラノ歌手としてコンサート、オペラの舞台に立つなど、多方面で活躍している。

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 インタビューの全文は『池田理代子の世界』でお読みください。

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