朝日新聞紙面とOGが振り返る『宝塚歌劇 華麗なる100年』 榛名由梨×鳳蘭×汀夏子対談

[掲載]2014年04月08日

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左から榛名由梨さん、鳳蘭さん、汀夏子さん

榛名由梨(はるな ゆり)
1963年、「花詩集」で初舞台。1973年、「白い朝/ロマン・ロマンチック」で月組トップ就任。1974年、花組トップ就任。1979年月組トップでありながら副組長も兼務。1982年、専科へ組替え。1988年、「戦争と平和」で退団後、舞台などで活躍。
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榛名由梨(はるな ゆり) 1963年、「花詩集」で初舞台。1973年、「白い朝/ロマン・ロマンチック」で月組トップ就任。1974年、花組トップ就任。1979年月組トップでありながら副組長も兼務。1982年、専科へ組替え。1988年、「戦争と平和」で退団後、舞台などで活躍。

汀夏子(みぎわ なつこ)
1964年、「花のふるさと物語」で初舞台。1970年、「パレアナの微笑み」で雪組トップ就任。1980年、「去りゆきし、君がために」で退団後、舞台などで活躍。
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汀夏子(みぎわ なつこ) 1964年、「花のふるさと物語」で初舞台。1970年、「パレアナの微笑み」で雪組トップ就任。1980年、「去りゆきし、君がために」で退団後、舞台などで活躍。

鳳蘭(おおとり らん)
1964年、「花のふるさと物語」で初舞台。1970年、「僕は君」で星組トップ就任。1979年、「白夜わが愛 ―朱鷺の墓より―」で退団。鳳蘭レビューアカデミー校長。2014年6月、「シスターアクト」に出演。
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鳳蘭(おおとり らん) 1964年、「花のふるさと物語」で初舞台。1970年、「僕は君」で星組トップ就任。1979年、「白夜わが愛 ―朱鷺の墓より―」で退団。鳳蘭レビューアカデミー校長。2014年6月、「シスターアクト」に出演。

表紙画像 著者:朝日新聞出版  出版社:朝日新聞出版

 宝塚歌劇が2014年4月1日に100周年を迎えた。その歴史を朝日新聞や写真ビジュアル誌「アサヒグラフ」で振り返る『宝塚歌劇 華麗なる100年』が、ヅカ・ファンの人気を呼んでいる。記事や写真という「ニュース」を切り口にした構成に、時代とともに変化してきた宝塚とファンのありようが現れる。
 戦前の貴重なビジュアルから2014(平成26)年1月31日紙面までをカバーする。1914(大正3)年4月1日に宝塚歌劇がスタートした日に朝日新聞に掲載された白黒広告、39(昭和14)年のアメリカ公演。64(昭和39)年の正月公演の前売りのために徹夜で座り込むヅカ・ファンを前に、「わかりませんねえ、女の子たちのこの気持ち」と守衛さんがもらしているのがほほえましい。
 宝塚OGの対談も9本と盛りだくさん。大地真央×黒木瞳といったベテラン勢から、退団から日が浅い大空祐飛×瀬奈じゅんなどが、それぞれの時代の思い出を語っている。
 この中から、榛名由梨さん×鳳蘭さん×汀夏子さんの対談を紹介する。

熱狂時代の妖精たち
榛名由梨×鳳蘭×汀夏子

■よく学び、よく遊んだ音楽学校時代
榛名 私が49期生、ジュンコちゃん(汀さんの愛称)とツレちゃん(鳳さんの愛称)が50期、宝塚音楽学校の予科、本科のころからだからもう50年! 親といるより長い(笑)。 同時代にみんな長くトップをやらせていただいて、もう家族というか、結束が固いですね。
 私たちは50期生ということで、大階段で全員はかまで写真を撮ったのを覚えています。宝塚のことを全然知らないで入ったから、そのときはじめてスターさんたちを見たんです。
 ツレちゃんとは反対に、私は13歳のころ宝塚の舞台を観てファンになって入りたいと思うようになりました。宝塚の別科という夜間の予備校に通って音楽学校の試験を受けました。
榛名 私は、父が宝塚ファンで、西宮夙川に住んでいましたから、毎月のように観劇に連れていってもらっていたんです。幼稚園のとき、「大きくなったら何になりたいの」と聞かれると、すでに「宝塚のスター」と答えていました。6歳のとき、生きた馬が舞台に出てきたのにびっくりして、自分も舞台にかけ上っていって銀橋をちょろちょろした、というのが初舞台ですね(笑)。それから、バレエを習わせてもらって、中学1年から3年間、子供アテネという宝塚の予備校みたいな学校に通いました。音楽学校の校舎でバレエや日舞を稽古していたから、試験のとき、あがらなかったんです。慣れていたから。
 私は、神戸で中国人が通う学校に行っていたから宝塚のこと知らなかったんですよ。たまたま友達が宝塚音楽学校を受けるというのを聞いて、私も行ってみたい、と思って受けてみたんです。
 呼ばれたというか、入るべくして入ったんやね。友達はどうしたん?
 落ちて、今、ハワイで日本料理屋さんをしています。
 入らないでよかったかもね(笑)。音楽学校は授業が朝から晩まであるのに加えて、ピアノの稽古でも学校に朝一番で行って順番をとって練習したり、授業が終わってからも個人レッスン出るから毎日が学校とお稽古だけで終わってしまう。
榛名 授業を必死で受けて個人レッスンにも出ているから、自分のことに一生懸命でほかの人のことを見ている余裕がなかった。全員の成績が出るから、それで誰がいるかわかるくらい。汀さん、首席でしたよね。
 三味線、タップ、ピアノなどいろいろな科目があるんですよ。首席というのはひっくるめてまあまあいい点ということで、秀でるものが何もない。
 私はスターのスの字も頭になかったから、遅刻ばっかりして、いつも電車が遅れました、と言い訳していました。ピアノの順番なんかとったことないから、今だにバイエルも弾けない(笑)。
 それでも、音楽学校の前の遊園地の金網の穴のところからもぐりこんで、遊園地のボートに乗りにいってさぼっていました。
榛名 今は、遊園地のファミリーランドも動物園もなくなって、宝塚もずいぶん変わってしまいました。私もよく休憩のときにファミリーランドに行って遊んでいましたね。
 私は宝塚のことを知らないで入ったから、金網に穴があいているとか、そんな情報を教えてくれる友達もいなくて、一回も行ったことがなかった。
 教わらなくても、自分で穴を見つけていくの(笑)!
榛名 私は穴を抜けて大劇場まで行って、上手の花道のカーテンを開けて、袖から上級生の舞台を見ていました。鳥の羽をつけた上級生から、「ちょっとそこの子、ひもくくってよ」と言われて、早替わりのお手伝いをしたり。それが楽しかったんです。
 榛名さんの学年までは、本科生が舞台に出られたんですよね。
 そう、出てはった。私たちは、「袖」というのがどこにあるかもわからなかった(笑)。
榛名 裏手から袖に入るところの場所を知っていたから、見たいという場面でさっと入って、さっと見て帰る。
 本科生の実習が榛名さんの期まであって、上級生と一緒に舞台に出られるんです。楽しそうだったのに、私たちの期からなくなったからショックだった。
 制服の色も私たちの期から変わったんですよね。
榛名 私たちが悪いの。お好み焼きを食べに行くと、ソースが制服につくから、しみとりをしてもスカートが地図みたいになる。校長先生に、「君たち女の子なのにこんな汚して」と怒られたんです。それで、私たちの次の期から汚れの目立たない濃い色になったんです(笑)。
 スケートの授業も私たちからなくなりましたね。
榛名 昔は、「宝塚オン・アイス」というショーをやっていて、スケートの授業があったんです。スケートの試験まであったんですよ。コーナリングをちゃんとして、止まれないと合格できなかった。大阪の梅田のリンクまで行ってスケートの授業を受けて、それから宝塚にもどって日舞の授業がありましたから、たいへんでした。
 ご苦労さま(笑)。よかったわ、なくなって。
榛名 今の音楽学校は、そうじや規律の厳しさばかりが宝塚らしさのように思われているのね。私たちの時代は、おそうじはなかった。いつのころからか上下関係が厳しくなっていって・・・・・・。今は廊下を歩くときも下級生ははじを歩かなくてはいけない、とかいろいろたいへんらしいけど。
 そんなことするなら、私は学校をやめているわ。
榛名 阪急電車に乗っていたら、道で電車にお辞儀をしている子たちがいるの。電車に上級生が乗っているかもしれないから、ということらしいけど、たいへんやね。学校が厳しくなりすぎて、宝塚に入団したら、ほっとするみたい。いまの上級生は優しいですよ。昔、上級生は怖かったんです。ロケットでも上級生がみんな袖で見ていて、「右から5番目の人、足が少し低いよ」といわれると、「ご注意受けましてありがとうございました」と謝りにいったのを覚えています。
 若い女性ばかりですから、やはり厳しさは必要だと思うんです。上級生を敬い、おっしゃることはなんでも聞くという教えを毎日のように聞いていましたから、年上を敬う心を自然と植えつけられて、宝塚をやめたあともそれはありがたいことでした。
榛名 宝塚で上級生に厳しく教わったから、お姑さんに仕えるのがすごく楽だったとよく聞きますね。
 でも、嫁にいけないやないの(笑) いったのツレちゃんだけ。
 そう思って、お姑さんには仕えようと思ったんですけど、ちょっと別でしたね。私が悪いんですけど、難しかったです・・・・・・。
 涙ぐんできた(笑) 清く正しく美しくの教えを守り、健康的で、先輩後輩の規律が厳しくて忍耐力も養われる・・・・・・。最初はお嫁入りのために女の子を育てる学校として考えられたんですよね。
 もともと花嫁修業の場だった。だから、宝塚に入団しても「生徒」のままで女優とは呼ばないんです。

■初めてづくしの時代
 50年たってもまだよく覚えているのは初舞台。思い出といえば、めちゃくちゃな出遅れ。自分の場面の音楽が流れているのにのんびりしていたら、えーっ、はじまってる! あわてて出ていったら、楽屋の真っ赤なスリッパのまま。うしろにぱっとけったら、スタッフのおじさんから、すーっとぞうりがでてきた。それ以来、出遅れない公演、ないの(笑)。
 私は、初舞台のロケットで、衣装の胸のところを留めているフックがとれて、そのままペロンて下着がでちゃった。お客さまからは見えなかったらしいんですけど、そのまま走って袖に入って、「もう宝塚やめる」と泣いていたら、楽屋のなかの生徒食堂で、「初舞台でやめるいうたら、あかんで」と慰められて・・・・・・。
榛名 私は実習がありましたから、本科生のときに舞台に出ているんです。「花のみちのく」という作品で1年先輩がソロをしていたんですが、その方が急に休演されたんです。そのソロを、「あんた、やりなさい」と、衣装を着せられパンと舞台に押し出された。歌詞はわかっていたから、なんとか歌ったんです。まだ芸名もないときで、家に帰ってから、「今日、私ね、ソロ歌ってきた」とべそかきながらいったら、別の日に親が楽しみに見にきてしまって、そのとき一回だけしか出ていないから、親はがっかり(笑)。
 本科のときから有望視されていたんですね。実習ですでに大活躍。私は母ひとり子ひとりだったから、お金がかかると聞いていたし、トップになりたいとかスターになりたいとか高望みしないですごしていたんですが、入ってすぐのころに「港に浮いた青いトランク」で準主役に抜擢されたんです。それが子供の役で、以来、何年たってもずっと少年の役ばかり。大人になれないままでした(笑)。ツレちゃんは、最初から大人の雰囲気で正反対。
榛名 私の役のつきかたはラッキーだったと思います。3年目くらいのころは、ちょうどパリ公演があって50名抜けたときだったので、新人公演も主演をやらせていただいたり、運がよかった。
 榛名さんの一番の幸運は、最初に「ベルサイユのばら」のオスカルを演じたということです。
 榛名さんがオスカルでなかったら、こんなに大ヒットしなかったかもしれない。それくらい素敵でした。
榛名 劇画のファンからは、カミソリを送られたりして、殺されるかと思いましたよ。夜道に気をつけろといわれました。
 榛名さんはオスカルの次にアンドレもやっていて、それがまた、すばらしいんです。
榛名 植田紳爾先生に、「オスカルだけやっていたら、それだけで終わると思うよ、舞台人としてはいろいろな役ができたほうがいいでしょう」といわれたんです。安奈淳さんこそオスカル役者だとずっとファンからいわれていたのに、なかなか機会がなかったので、私がアンドレ役で安奈さんがオスカル役というバージョンができました。演じるということでいえば、オスカルよりアンドレが好きでしたね。包容力のある役で、男役としては、アンドレのほうがやりやすいんです。
 榛名さんのアンドレのファンになってサインもらいました。
榛名 ラブシーンの場面で、「星がきれいだ」というところ、いつもあの場面は袖で出演者がすずなりになっていた。内部の人も見たいと思ったんですね。ツレちゃんはフェルゼン役。それがもう、ぴったりだったの。
 私がオスカルやったら、高倉健さんくらいしかアンドレできる人はいない(笑)。私はオスカル役をやりたいと思ったことは全然ないんですが、そのかわりたくさんのオスカルと相手役をさせていただいています。
榛名 みんながツレちゃんに相手をしてもらっているんです。そのときは、いろいろな組の人と合同公演をして、知らない組に入って日ごろ組んでいない人と組ませていただくという楽しみがありました。そういう顔ぶれを普段は見ないから、ファンの方たちもうれしいわけですよ。盛り上がりましたね。
 ヒゲをつけたのも「風と共に去りぬ」のレット・バトラー役で榛名さんがはじめてですね。
 私もバトラーをやることになっていて、ヒゲをつけなければならなくなるから、「榛名さん、お願い、ヒゲつけるのやめておいて」といったんだけど。強力なのりでつけるから肌がめくれてくるほどかぶれるんです。つけるときは、皮膚がつれないように笑いながらからつけないといけない。
榛名 似合いすぎやねん、ツレちゃんは。クラーク・ゲーブルにそっくりっていわれていました。「ツレちゃんは素敵だったね」とみんなが私にいうから、「私もバトラー、やっていたんです」ってアピールしてまわった(笑)。アトランタに行ったときに原作者の資料館があって、宝塚の舞台の資料も入っているというので見にいったら、ツレちゃんのプログラムが飾ってあるんです。誰が見ても納得するバトラーで、とても素敵でした。
 汀さんと安奈さんはスカーレットでしたね。
 女らしくてごめんね(笑)

■思い出深い男役
 私はバトラーが一番好きでした。それと「誰がために鐘が鳴る」のロバート・ジョーダン。
榛名・汀 似合うわあ。見た目がもう外国の俳優さんやもん。
 私の好きなのは、「星影の人」の沖田総司と「丘の上のジョニー」のジョニー。どちらも大人になれない役どころ(笑)。
榛名 汀さんにしかできない役やもん。あのころは、演出家の先生が演じる人に合わせてぴったりな役を作ってくださったんです。
 ありがたかったですね。
 私は子供役しかできないと思われていて、コンプレックスでした。
 そんなふうに全然見えへんかったけど。
 普通の男役ができなくて、どないしよう、とずっと思ってきたから、さよなら公演の前の、「朝霧に消えた人」という作品ではじめて大人の役をやったときはうれしかった。それから、「ノバ・ボサ・ノバ」のオーロ役が大好きでした。黒塗りで野生的な役で楽しかったですね。作者の鴨川清作先生はすごかった。その前にも、「シャンゴ」という伝説の舞台がありました。振り付けの鬼のパティ・ストーン先生にしごかれてしごかれて・・・・・・。すごい作品に出していただきました。
榛名 私は、転機になった役は「ウエストサイド物語」なんです。ブロードウェイから演出家がいらして、オーデションで役がついていったんですよ。金網をしつらえて、よじ上るんです。女の人がそこまでするかというほど過酷でした。正面きった芝居をしたらだめだ、リアリティのある芝居をしなければならない、といわれて、横向きで相手に向かって早口でせりふをいわされたんです。そうしたら初日、お客さまに何をいっているのかわからない、といわれて、宝塚的な芝居とリアルな芝居とそのハザマで困惑しました。
 宝塚は特に正面向いてせりふをいうように教育されますからね。前のガンマイクに向かってせりふをいえ、と教えられていたのに・・・・・・。
 「ウエストサイド物語」を見たときは衝撃的でした。
榛名 土色みたいなドーランで、普通の男性の唇に見えるようにと、口紅も塗ったらだめだといわれたんですよ。
 私は、スターになるつもりもなかったので、新人のころは淡々としていました。5年くらいしたら、お嫁にいく予定でしたから(笑)。研3くらいのときに、「ヤングメイト」というショー作品ではじめてソロをいただいたんです。そのころはやっていた「サニー」を歌ったんですが、客席を背にして立って、振り向きざまに、「サニー!」とやったら、客席が、わーと沸いたんです。え、今の歓声は私に? とびっくりして・・・・・・。
 衝撃的だったのね。舞台向きなのよ。ツレちゃんのすべてが。恵まれているのよ。
 あれから、舞台に目覚めて、「がんばらなくては」と思うようになったんです。
 恵まれなさすぎなのよ。私は、背は低いは、くびれているは・・・・・・(笑)。女役になったほうがよかったんですけど、どうしても男役がしたかったんです。
榛名 この世にいないような男性像を作って、夢夢しいところが宝塚だといわれますが、私とツレちゃんはひげもつけて、リアリティのある、歌舞伎でいうところの立ち役なんですよね。汀さんは2枚目の線。いまは、どんどん宝塚的なものが失われてきたように思います。昔の名作の再演物も多くて、たいへんかもしれません。前にやっている人が多いから、何をやっても比べられますよね。かわいそうですね。
 男性はごつごつしていて、女性はしなやか。しなやかな女性が男性を演じる「男役」だからセクシーで美しい。ファンの方は、背中に色気を感じるとかヒップラインがいいとか具体的に魅力を感じてくださっていますよね。宝塚を観たあと、「夫の顔を見られない」と、おっしゃるんです(笑)。やっぱり美しいんです、男役は。宝塚は夢を売る妖精たちですね。
榛名 女性が男性を演じる、世界でひとつだけの舞台、というところに価値があって、夢を追い求めて見にいらっしゃるんでしょうね。
 生のオーケストラがあるということもすばらしいですね。そして80人もの女性が繰り広げる華やかな舞台。衣装、美術、音楽、すべてが夢の世界。なんともいえない幸福感が観る方に届くんだと思います
 100年も歴史が続いて、大きな記念イベントに出していただけるということはありがたいことです。
榛名 「宝塚の殿堂100人」にも3人とも入れていただいて、ほんとうに名誉なことだと思っています。
 次の記念の年もみんなで集まることができるといいですね。

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宝塚歌劇 華麗なる100年

著者:朝日新聞出版/ 出版社:朝日新聞出版/ 発売時期: 2014年03月


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