池井戸潤、自作を語る

 デビュー作『果つる底なき』から直木賞受賞作『下町ロケット』まで、作家・池井戸潤さんが転換点となった7作品を振り返る。「『下町ロケット』を出したら読者がいなくなる」という刊行前のためらいや、藤沢周平の「海坂藩」ものにも通じる可能性を持った「短編集ベスト1」作品への思いからは、変化を続ける池井戸作品の本質が見えてくる。銀行ミステリー、企業小説、サラリーマン小説などと分類されながら、いずれもジャンルを内側から超えていく力を持った作品はどのように生まれたのか。作家としての13年の歩みを語った。
                  ◇
 いけいど・じゅん 1963年、岐阜県生まれ。慶応義塾大学文学部、法学部卒。銀行勤務を経て、98年に『果つる底なき』で江戸川乱歩賞、2010年に『鉄の骨』で吉川英治文学新人賞、11年に『下町ロケット』で直木賞を受賞。ドライバーからパターまで特注するほど熱中するゴルフは「最近、100がきれなくなった。芝の上ではダメでも机で距離感が合っているからしかたないか」。ゴルフ以外の趣味もフライフィッシング、カメラ、バイクと幅広い。
               

果つる底なき (講談社文庫)

果つる底なき (講談社文庫) 著者:池井戸 潤 出版社:講談社

1ヶ月で仕上げたデビュー作(98年刊)

  仕事の時間をやりくりして、1ヶ月で書き上げた作品です。
  当時、銀行はすでに辞めていたので、収入は企業コンサルタントの仕事とビジネス書の原稿料でした。増刷がかかる本もありましたが、ビジネス書業界は不景気のあおりで、目新しい切り口でなければ出版の企画がどんどん通りにくくなっていて、このまま20年、30年とビジネス書のライターを続けることはできないだろうと行き詰まりを感じていました。
  本当に作家になれるのか分からない不安もありましたが、1ヶ月かけて原稿を書くという投資をしてみる価値はあると思ったんです。クリスマスに『シティバンクの経営戦略』というビジネス書の原稿を1日80枚ぐらいのハイペースで仕上げて、時間を作り、この小説を書き出しました。
  1ヶ月しか時間は取れないから、取材する時間もない。そのために銀行員時代に体験した債権回収の出来事がそのまま題材となって出てきます。実は銀行員としてのリアルな体験を書いた小説はこれが最初にして最後です。「わたし」という一人称で書いた長編もこれだけですね。
  いま、この小説が受賞した江戸川乱歩賞の最終選考会の立ち会い(司会)をしています。自分の人生が選考会によって変わったことを思うと、毎回緊張します。司会として選考に接していて、偶然だったけれど、この作品は銀行の不祥事という話題性とオリジナリティーという新人作家に求められる要件を満たしていたのだと思いました。

  • ブックアサヒコム書店
  • アマゾン
  • 楽天
  • 紀伊国屋
  • TSUTAYA

BT’63(上) (講談社文庫)

BT’63(上) (講談社文庫) 著者:池井戸 潤 出版社:講談社

人間重視への転換点(03年刊)

  単行本のセールス的には失敗したけれど、自分では最も気にいっている作品の一つです。
  これ以前は事件やプロット重視だった作風が、人間重視に変わっていく転換点になった作品です。父と息子の関係など登場人物の背景を見つめ、物語に当てはめるのではなく、彼らがどう考え、どう生きようとしたかを考え続けました。
  もともとは宅配便の拠点間長距離輸送を請け負っている会社が、交通法規を破らざるを得ないようなノルマを課されているという話を書こうかなと思っていて、そのまま書いていたら社会派小説になったかもしれなかった作品です。
  舞台になった運送会社を描いていたら、なぜか昭和30年代のイメージが浮かび、そのノスタルジックな感じを楽しんでいるうちに、現代を生きている人間が過去とクロスオーバーする小説になってしまったのです。
  固有名詞に頼らずに昭和30年代の雰囲気を出したいと思って、人の関係やしぐさとか町の闇の濃さなどで表現できないかと悩んだ、そんな表現の苦労も楽しい思い出です。

  • ブックアサヒコム書店
  • アマゾン
  • 楽天
  • 紀伊国屋
  • TSUTAYA

オレたちバブル入行組 (文春文庫)

オレたちバブル入行組 (文春文庫) 著者:池井戸 潤 出版社:文藝春秋

銀行員小説の殻を破る活劇(04年刊)

  銀行員を主人公にして明るい娯楽小説が書けないだろうか、と考えたのが出発点です。それまで銀行員が主人公だと物語のパターンがだいたい決まっていて、銀行業界のなかで正義のために戦うというようなものや、経済を分かりやすく解説した情報小説のようなものでした。
  この作品の前に『株価暴落』(04年)という作品を書きましたが、これはまだミステリー味が濃かった。もっとベタにして、銀行員の活劇にしてみたのが「オレバブ」です。
  主人公の半沢は正義の味方ではなく、やり手で、ちょっとワルな銀行員です。書いていて肌にあっていますね。
  えっ、半沢とオレのイメージが重なるって? バブル入社組だし、ちょっといいかげんな所とかは似ているけれど、半沢に比べたらオレは品行方正だから……ほんとに(笑)。
  今考えると、デビュー作の『果つる底なき』を書いたときは、自分自身がまだ銀行員に近すぎた。融資の手続きで失敗する夢を見て、はっと目が覚めてから「おれはもう銀行員じゃない良かった」と思うことがまだあったぐらいです。この「オレバブ」の前後から、作家として銀行員像をいじれるようになってきたんです。
 「やられたら倍返し」というキャッチコピーを自らつけたように、理不尽なやつらに対して最後に「ざまあみろ」と突きつける爽快感を楽しんでいただきたい。寅さんの映画じゃないけど、怒って、泣いて、笑ってというドラマを作家としてハンドリングできるようになってきたころです。
  ぼくの作品のなかで唯一のシリーズもので、「ロスジェネの逆襲」というタイトルで雑誌に連載していた3作目が来春には単行本にできそうです。

  • ブックアサヒコム書店
  • アマゾン
  • 楽天
  • 紀伊国屋
  • TSUTAYA

シャイロックの子供たち (文春文庫)

シャイロックの子供たち (文春文庫) 著者:池井戸 潤 出版社:文藝春秋

いまだ超えられない完成度(06年刊)

  ぼくの短編集ベスト1の作品です。他の作品は、この短編集の完成度をいまだ超えられていません。
  ただ単行本発売時はこれも売れませんでした。
  人に敬意をもって書くことが小説において最も重要というスタイルを自信を持って進め、手応えがあった作品です。10の短編には10の主人公が登場し、10の人生がある。それをさまざまなミステリーの手法で描くという試みでした。
  藤沢周平さんが「海坂藩」を通して世界を見たように、この連作短編はいずれも架空の「東京第一銀行」の支店が舞台です。本部から来た支店長、たたき上げで出世のためには業績アップが必須な副支店長、支店のエースとして一目置かれる課長代理……。それぞれの特徴だけではなく、その背後にひそんでいる人間のふくらみを表現しようした作品です。
  この作品のラストの一文は今も暗唱できます。「夏の暑さは厳しいけれど、わたしはこうして生きています」。最後の最後に思いついた文章でした。これだけ思い入れをもって一つの文章まで語れるのは、この作品だけですね。

  • ブックアサヒコム書店
  • アマゾン
  • 楽天
  • 紀伊国屋
  • TSUTAYA

空飛ぶタイヤ(上) (講談社文庫)

空飛ぶタイヤ(上) (講談社文庫) 著者:池井戸 潤 出版社:講談社

登場人物に学んだ「感動」(06年刊)

  徹底してエンターテインメント小説を目指した「オレバブ」が、やっぱり書店で企業小説の棚に入れられていました。元銀行員が書くと何でも企業小説なのか、そんなにオレの作品を企業小説の棚に入れたいのなら直球の企業小説を書いてやるよ、と思って書いたのがこの作品です。
  発表した当時は、題材になった脱輪死亡事故の記憶が生々しく、ある文学賞の選考委員に、読んでから調べたらこの作品がほぼフィクションなので驚いた、と指摘されました。読者もノンフィクションなのか、フィクションなのか、どう受けとめていいのか戸惑ったと思います。
  この小説は、財閥系の自動車会社に整備不良が事故の原因とされた小さな運送会社の社長が、資金繰りの苦労やさまざまな中傷に負けずに、真実を明かし、勝利を勝ち取る物語です。「シャイロック」で自信を持ったスタイルで、この自動車会社の会社員や被害者などの一人ひとりの登場人物と向き合っていくうちに、もうこういう結末以外はあり得ないものになりました。そのとき、「オレバブ」にはまだ「感動」という要素がなかったと気づいたのです。
  この作品が成功したのは、沢田という登場人物の造形がうまくいったことではないでしょうか。運送会社の赤松社長に自動車会社のカスタマー戦略課長として対応した沢田は、最初は大会社の論理で生きるヒール役として登場しますが、その内面がしだいに明かされ、そうだったのかと読者に共感が生まれる存在になります。こういう変化球の人物を物語の中心に据えたのは、初の試みでした。
  この作品は直木賞は落ちましたが、書評や口コミなどで多くの読者を獲得することができました。この作品を原作としたドラマはさまざまな賞を取り、運はドラマに譲ったと思っています。

  • ブックアサヒコム書店
  • アマゾン
  • 楽天
  • 紀伊国屋
  • TSUTAYA

鉄の骨

鉄の骨 著者:池井戸 潤 出版社:講談社

素朴な疑問を出発点に(09年刊)

  なぜ談合はなくならないのか。ぼく自身、談合がなぜ成立するか不思議に思っていました。それを小説に、エンターテインメントにできないかと思ったんです。
  ラストは決めずに書き出したので、主人公であるゼネコンに勤める若い社員・平太と一緒に考えていました。
  小説のなかでは談合がいいとも、悪いとも言っていない。問題提起よりも、純粋に物語を楽しんでもらえればいいと思います。
  この小説でも、主な舞台は会社、居酒屋、家です。ぼくの小説の多くはその三角形を行ったりきたりしていると言われますが、ほとんどのサラリーマンの生活はその繰り返しでしょう。そのせいか読者も男性が多いのです。
  談合を描く小説と平太の恋愛話をからめたことに、今は不満もあります。ただ、担当編集者がつけた「会社がヤバい。彼女とヤバい。」というコピーは秀逸でした。「今度の敵は小役人」とか「一階に現実、二階は夢。そんな人生を僕は生きたい」とか、ぼくは帯のコピーを自分で決めることが多くなっちゃったのですが、自分が考える以上のコピーを編集者にもらうと、分かってるなこいつ、と思いますね。

  • ブックアサヒコム書店
  • アマゾン
  • 楽天
  • 紀伊国屋
  • TSUTAYA

下町ロケット

下町ロケット 著者:池井戸 潤 出版社:小学館

悩み抜いたゲラ直し(10年刊)

  週刊誌の連載と読み比べてもらうと分かるのですが、恋愛部分をばっさりと捨てました。
  小説でも映画でも、なぜか本筋の話に恋愛や家族の話が織り込まれているでしょ。読者や観客のすそ野を広げるにはそれが必要なのかもしれないけれど、エンタメの面白さってほんとはそんなものじゃないだろう、という挑戦でした。
  汗くさい、男臭い、ひたむきで仕事に誠実な男たちの群像が面白ければ、付随的な恋愛話は邪魔だろうと考えて、こんな究極のオヤジ小説になってしまったんです。
  それに構成も変なんです。企業小説だったら資金繰りでハラハラ、ドキドキさせるのが常道なのに、中盤で和解金が50億も入ることになって、物語の推進力が後半は社長の夢に社員がついてくるかどうかになっている。
  もちろん資金繰りの苦労とロケットの打ち上げというクライマックスをラストにまとめようとしたのですが、どうしてもすっきりしない。原稿を直しながら、何度もこの作品を没にしようと思ったぐらいです。
  オヤジばっかりの話だし、構成は変だし、「これを出したら、読者がいなくなる」と本気で悩んでいました。刊行後は疲労感でぐったりしていたほどです。でも、そういう冒険をしたからこそ、この作品が生まれたのだと今は思えます。

  • ブックアサヒコム書店
  • アマゾン
  • 楽天
  • 紀伊国屋
  • TSUTAYA

ページトップへ戻る