哲人・木田元 読書の寄り道

 哲学者・木田元さんはお堅いハイデガーの研究者でありながら、戦後の闇屋の経験もあるせいか、生活に根ざした視点は確か。読書については「寄り道をして、行ったり来たりする中で見つかるものが必ずある」。哲学関連書はもとよりミステリー小説や性風俗論、言語論などを書評する語り口はすこぶるやわらかく、わかりやすい。一つの書評のかたちをなした木田さんの書評世界に〝寄り道〟しませんか。

城―カフカ・コレクション (白水uブックス)

城―カフカ・コレクション (白水uブックス) 著者:フランツ カフカ、Franz Kafka、池内 紀 出版社:白水社

明晰な新訳、作家の魅力引き出す

 世界中で出る本をこんなに次々に翻訳し、翻訳が文化の重要な一翼をになっている国はほかにないと思う。「翻訳大国」という呼び名には自嘲(じちょう)がこめられているが、そうはいっても、翻訳のあるのはありがたいことだ。おかげで、極東の島国にいながら、世界への広い眺望が得られる。
 まさかと思うものまで訳されている。たとえば、二十世紀初頭のオーストリアの作家ムージルの日記。この作家は文学と哲学の境界にいた人なので、私にも関係がある。その日記を読みたいと思っていたが、なにしろ厖大(ぼうだい)な量、ドイツ語で読むほどの根気はない。老い先は短いし、今生(こんじょう)ではとてもムリと諦(あきら)めていた。ところが今年初め、その『ムージル日記』の翻訳(圓子修平訳、法政大学出版局)が出た。千四百ページを超え、定価も二万八千円、とても人に薦められる本ではないが、私は小躍りして喜んだ。生きているうちに読めるぞ! 圓子さん、ありがとう……もっと読む

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始祖鳥記

始祖鳥記 著者:飯嶋 和一 出版社:小学館

「鳥人」幸吉の伝言は“ネバーギブアップ”

 久しぶりに骨っぽい爽快(そうかい)な小説に出あった。「始祖鳥記」という表題、少し凝りすぎていて中身の見当がつかないが、ライト兄弟に百年以上も先がけて、初めて空を飛んでみせた「鳥人」岡山の幸吉が主人公と分かってみれば、なるほどとうなずける。
 空を飛ぶといっても、大きな凧(たこ)をグライダー代わりにして、高い屋根や崖(がけ)から飛びおり、風を受けて少し滑空したといった程度のことらしいが、あの時代に、鳥のように空を飛びたいという夢をしゃにむに実現する情熱がすごい。結局幸吉は逮捕され、所ばらいになるが、この事件の噂(うわさ)はまたたく間に広がり……もっと読む

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戦士たちの挽歌―Forsyth Collection〈1〉 (角川文庫)

戦士たちの挽歌―Forsyth Collection〈1〉 (角川文庫) 著者:フレデリック フォーサイス、Frederick Forsyth、篠原 慎 出版社:角川書店

大ストーリー・テラーの面目躍如

 ド・ゴール仏大統領暗殺未遂事件を緊迫したドキュメンタリー・タッチで描いてみせた『ジャッカルの日』、緊張した国際政治を背景に、元ナチスの強制収容所長をどこまでも追跡していく『オデッサ・ファイル』、こうしたフォーサイスの大作に興奮させられたのも、もう三十年近く昔のことになる。
 その後一、二冊読んだきりこちらもご無沙汰(ぶさた)したし、彼の方も一時期休筆していたらしいから、本書は私にとって久しぶりのフォーサイスだった。しかも、今度は短篇(たんぺん)集、お手並み拝見と読んでみたが、期待はまったく裏切られなかった。もっとも、かつては剛速球をビシビシ決めていた剛腕投手……もっと読む

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図説 海賊大全

図説 海賊大全 著者:デイヴィッド コーディングリ、David Cordingly、増田 義郎、竹内 和世 出版社:東洋書林

世界史を華麗に彩る、海のアウトローたち

 はばかりながら、これでも一度は船乗りになりかけたことがある。嘘(うそ)ではない。敗戦まぎわに海軍の学校に入ったのだから。たった四カ月では自慢にもならないが、おかげで海や船や、ついでに海賊にもちょっぴり親しみがもてるようになった。
 『宝島』や『ピーターパン』以来、海賊は、黒い眼帯、木の義足、肩にとまったオウム、ラム酒、骸骨(がいこつ)を白く染め抜いた黒旗、埋められた財宝と、子どもにロマンティックな夢を与えてきたが、現実の海賊の生活はそんなに甘いものではなさそうだ。船上での苛酷(かこく)な生活、命がけの襲撃、捕まれば間違いなく縛り首。それでも海賊志願者が後を絶たなかったのは……もっと読む

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純情無頼―小説阪東妻三郎 (文春文庫)

純情無頼―小説阪東妻三郎 (文春文庫) 著者:高橋 治 出版社:文藝春秋

花ある役者の魅力たっぷりと活写

 “阪妻(ばんつま)”と言っても、もう若い人には通じないだろうな。阪東妻三郎のニック・ネームである。なに? そんな人知らないって? それじゃ、こう言えば分かるかな。目下活躍中の田村高廣、正和、亮、三兄弟の父親で、往年の時代劇の大スター。それがどうしたって? もういいや。知ってる人だけ読んでくれ!
 私の子どものころ、というと第二次大戦の戦前戦中ということになるが、現代劇はまだ欧米の水準に達していなかったからだろう、日本映画といえば歌舞伎の伝統を継ぐ時代劇、その三大スターが阪妻と嵐寛寿郎と片岡千恵蔵。だが、なんといっても“阪妻”だった。
 なにしろテレビなどない時代、大衆文化のなかで映画の占める位置がいまとはまるで違う。その大スターとなれば……もっと読む

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精神現象学

精神現象学 著者:G.W.F. ヘーゲル、G.W.F. Hegel、長谷川 宏 出版社:作品社

思いきりのいい翻訳、目からうろこの思い

 ここまでやるかと、訳者の思い切りのよさにまず感嘆した。私も哲学書の翻訳をいくつか手がけ、そのつど平明な訳文を心がけてはいるが、ここまではなかなか思いきれない。だが、たしかにここまで訳しくだかなければ、『精神現象学』を翻訳で読むことなど、できそうにない。眼からうろこの落ちる思いがした。
 たとえばこれまでの翻訳で「実在的でない意識の諸々の形式は、進行と関連そのものとの必然性によって、完成されるであろう」と訳され、なにがなんだか分からなかったところを、長谷川さんは「ものをとらえそこなった意識の形態が、全体としてどういう意味をもつのかは……もっと読む

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戦後性風俗大系―わが女神たち

戦後性風俗大系―わが女神たち 著者:広岡 敬一 出版社:朝日出版社

内側から貴重な証言、時代の息吹を伝える

 書評委員会の席上でこの本を開いたとき、思わず「わあ、懐かしい」と口走って、あたりにいた人たちの失笑を買った。
 だが、私は敗戦のとき十六歳、もう十分に物心はついていたし、しばらくは闇屋(やみや)稼業に従事したりもしたから、敗戦直後の焼け跡に立つ<街の女>にはじまって、売春防止法の施行のあたりまで、少なくとも十数年間は、この本に描かれている風俗を間近に見ていたことになる。懐かしくもなろうというものだ。
 この著者はすごい。戦後の歳月を一貫して新聞・雑誌の風俗記者やカメラマン、一時期は赤線専門の写真屋までして過ごし、人柄もあるのだろう、その世界の女性たちに「内側」の人間として認められ、……もっと読む

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言葉への情熱 (叢書・ウニベルシタス)

言葉への情熱 (叢書・ウニベルシタス) 著者:ジョージ スタイナー、George Steiner、伊藤 誓 出版社:法政大学出版局

本物の教養のすごみ 知の巨人の最新評論

 ジョージ・スタイナーの評論を読むと、文章を書くのが恥ずかしくなる。本物の教養に裏打ちされた文章とはこういうものかと思い知らされるからだ。
 なにしろこの人、国籍はアメリカだが、もともとオーストリア系ユダヤ人の子としてパリに生まれ、家庭では英独仏語が飛び交っていたというし、幼児期から父親にギリシャ語でホメロスを読み聞かされ、少年時代からシェイクスピアに読みふけったという天才児。一九四〇年にゲシュタポの手を逃れてアメリカに脱出し、戦後もアメリカとヨーロッパを股(また)にかけて活躍してきた文字通り国際的な知識人であるが、七十歳を超えたいまも健筆をふるっている。
 この最新の評論集には二十一篇(ぺん)の講演・評論・書評が集められているが、その話の及ぶ範囲がすごい……もっと読む

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消えゆく言語たち―失われることば、失われる世界

消えゆく言語たち―失われることば、失われる世界 著者:ダニエル ネトル、スザンヌ ロメイン、Daniel Nettle、Suzanne Romaine、島村 宣男 出版社:新曜社

危機に瀕することばと「世界」

 昔、田中克彦さんの『ことばと国家』(岩波新書)を読んで、脳天をどやしつけられるような衝撃を受けた。
 私たちは当然のように、日本語を「国語」「母国語」と呼び、英語やドイツ語を「外国語」と呼ぶ。だが、田中さんに言わせると、これは、日本国という行政圏と日本語の使用圏域とがたまたま一致しているところから、いや、一致していると思いこんだところから生じた思いちがいなのである。
 「思いこみ」と言ったのは、日本国にはアイヌ語や琉球語を話す人たちもいることを無視しているからだ。同様に、英語も英国の国語ではないし、ドイツ語もドイツ連邦共和国の国語ではない。英語はアメリカ、カナダ、オーストラリア、ニュージーランドでも使われているし、ドイツ語も、オーストリア、スイス、ベルギーでも使われているからだ。母の話していた言葉、mother(マザー) tongue(タング)も「母語」であって「母国語」ではない。
 それなのに、<ことば>をすぐ<国家>に結びつけ……もっと読む

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プラトンと反遠近法

プラトンと反遠近法 著者:神崎 繁 出版社:新書館

古代から現代まで壮大な精神史語る

  <遠近法>といえば、三次元の立体を二次元の平面に描くための絵画技法、ルネサンス期に発明され、<現代美術>ではほとんど無視されている一つの技法と思われているにちがいない。
 だが、遠近法の成立には、ある水準に達した幾何学・光学・視覚理論、そして空間を等質的なものと見る特殊な空間観、それに芸術上の特定の立場が協力して働いている。遠近法は、知的な科学・哲学理論が目に見える絵に感性化され、絵から知的な理論が読みとられる独特の<象徴(シンボル)形式>なのである。
 そのせいか、遠近法は多くの思想家を魅了してきた。ニーチェは、目に見えるこの世界の背後に目に見えない真の世界があるとするプラトン流の考え方を否定した……もっと読む

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フンボルトの言語思想 (テオリア叢書)

フンボルトの言語思想 (テオリア叢書) 著者:ユルゲン トラバント、J¨urgen Trabant、村井 則夫 出版社:平凡社

天才を歴史に位置付けて巧み

 言語学が精緻(せいち)な分析を展開しはじめると、「言語とは何か」といった大問題を大上段にふりかざす言語哲学・言語思想は影をひそめる。フンボルトの名前を耳にするのもずいぶん久しぶりだ。
 W・v・フンボルトは、ゲーテより十八歳年少、ヘーゲルより三歳年長、十九世紀の初めにベルリン大学の創設にも尽力したプロイセンの高級官僚であり大知識人だが、語学の天才でもあった。官吏を隠退後、サンスクリットと印欧諸語、ヘブライ語とセム系諸語からアメリカ原住民諸語、ビルマ語、タガログ語、中国語、日本語、さらにジャワ島の古語カヴィ語まで学んだというからすごい。その上で、言語についての……もっと読む

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スピノザ 異端の系譜

スピノザ 異端の系譜 著者:イルミヤフ ヨベル、小岸 昭、細見 和之、エンゲルベルト ヨリッセン 出版社:人文書院

追い払われた哲学者、後継者たちをも追跡

 この書評を書くために、本棚からスピノザ関係の本や雑誌を引っぱり出してみて驚いた。あるわあるわ。「スピノザ・ルネサンス」も嘘ではなさそう。
 アルチュセールの弟子マシュレの『ヘーゲルかスピノザか』、ドゥルーズの二冊のスピノザ論。そのほかラカンもバルトもフーコーもデリダもレヴィナスも陰に陽にスピノザに言及する。さらにイタリアのネグリやアメリカのN・ブラウンの大胆なスピノザ論。たしかに今世紀後半、こんなに話題にされた古典哲学者はほかにいない。
 話題にされ方も実に多彩である。その唯物論、自然主義、身体論、政治論、宗教論、バロック性と、みんながスピノザという鏡に自分の姿を映してみせているかのようだ。
 もともとスピノザは不思議な哲学者である……もっと読む

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