パニック・アメリカーナ別館 1

 日本を代表するアメリカ文学者の一人で、SF評論家としても知られる巽孝之・慶応大学文学部教授とともにアメリカ文学を読む仮想読書会が始まります。慶応大・巽ゼミの学部生、院生から卒業生までが、一つの作品を三者三様の角度から解きほぐします。さまざまな評を通してアメリカ文学の魅力にきっと出逢える「読書会」です。
     ◇
 〈巽孝之・慶応大教授より〉
 わたしのアメリカ文学ゼミは 1990年開始ですから、もう 22年以上続いています。200名以上の卒論指導をするなかで、 7期生の時代、いまは作家となった向山貴彦君が現役とOBOGをつなぐゼミ年刊誌「パニック・アメリカーナ」 (Panic Americana)を創刊してくれました。
 今回は、 9月半ばの八ヶ岳ゼミ合宿で開いた読書会の報告です。「パニック・アメリカーナ」の企画の一つとして、全員参加でレポートを書いてもらい、それを文芸評論家の小谷真理氏と選考しています。課題図書に定めた作家は、19世紀アメリカン・ルネッサンスを代表し今年は映画化も相次ぐポー、 2007年の逝去以来再評価の機運が高まり、過去の卒論でも選ぶ学生の多かったポストモダン作家カート・ヴォネガット、そしてインド系アメリカ人女性作家として人気抜群のジュンパ・ラヒリ。それぞれの感性が生きた三者三様の読書会報告をお楽しみください。
    ◇
 たつみ・たかゆき 1955年、東京生まれ。コーネル大大学院修了( Ph.D, 1987)。著書に『サイバーパンク・アメリカ』『ニュー・アメリカニズム』『Full Metal Apache』など。朝日新聞書評委員も務めた。
    ◇
 書影に同じ著者による別の作品を取り上げているものもありますが、評はいずれも「黒猫」「ローズウォーターさん、あなたに神のお恵みを」「その名にちなんで」を対象としています。
 巽ゼミ公式ホームページ「Cafe Panic Americana」はこちら

黒猫・アッシャー家の崩壊―ポー短編集〈1〉ゴシック編 (新潮文庫)

黒猫・アッシャー家の崩壊―ポー短編集〈1〉ゴシック編 (新潮文庫) 著者:エドガー・アラン ポー、Edgar Allan Poe、巽 孝之 出版社:新潮社

誰もがポーになる日

 私はポーの短編集、なかでも「黒猫」を読んだ時に、自身の介護の経験を思い出した。私の母は昔からの病気が悪化し、家に寝たきりである事がほとんどだった。家庭の都合上、私がつきっきりで介護する場面が多かったのだが、この時に「黒猫」に描かれる、愛しているのに憎悪としか思えぬ「天の邪鬼(あまのじゃく)」の精神が私の内側にも時折、顔を出す事があったのを覚えている。
 私は母を愛していたし、誠心誠意介護を頑張っているつもりだった。だが、なぜそうしたのか今でも理由が分からないが、動けない母親の頼みを何かと理由をつけて断る事が少ない数ではあるがあった。結局、この事を後悔するのだが、「黒猫」内の語り部である男も序盤では残虐な行為に対する後悔の念の描写が見られる。しかし、私の経験と男がその後、決定的に異なる点は、私はその後「天邪鬼」の精神を抑える事が出来たが、男はその精神をエスカレートさせていった事である。これについては「人との関わり」が決定的な分岐点になったのではないかと私は考える。私は、自分のした行為の後、被害者である母親や家族と話し合う事があったし、他人の意見を聞くことで自分の考えを改めることが出来た。だが、男の場合、行為の被害者は会話をする事が出来ない動物である事に加え、会話をするべき妻も死亡してしまう。こうした点から本作の中に表現される人間が誰しも持つ「闇の力」は、結局は人と人との交わりによって解消され、そうした環境を持たない者は破滅へと向かってしまうのではないだろうかと考えた。
  最近ではいじめ、自殺などそうした人間の暗黒部分が膨らんだ結果である事件を多く目にするが、そうした問題は同じ環境にずっと留まるのではなく、少しでも新しい環境や意見を取り入れる事が大事だと私は思う。幸いな事に現代はソーシャルなメディアも増え、他人と交わる事が容易である。ポーの小説には優れたプロットだけでなく、現代と人間が抱える問題解決のヒントも含んでいるのだ。
(大嶋一晴、4年)

  • ブックアサヒコム書店
  • アマゾン
  • 楽天
  • 紀伊国屋
  • TSUTAYA

黒猫・黄金虫 (21世紀版・少年少女世界文学館 第13巻)

黒猫・黄金虫 (21世紀版・少年少女世界文学館 第13巻) 著者:エドガー.アラン・ポー、松村 達雄、繁尾 久 出版社:講談社

動物の勝利

 エドガー・アラン・ポーの「黒猫」は、私にとって衝撃的な作品でした。今まで、作中の登場人物が他の人間に対して背心的、肉体的に残酷なことを行う物語は何度か読んだことがありましたし、また、小さい頃、父親に殺された少年が、その父親の前にベルの少年として現れて復讐する、という怖い話が流行りました。しかし、いずれも虐待され、復讐をするのは人間で、この「黒猫」のように、物語の大半で動物が虐待され、動物によって人間に制裁が加えられるという作品は、今まで読んだことがありませんでした。
 なぜポーは、この作品において、黒猫を重要な位置においたのか、このことが非常に気になります。また、同時に、主人公が残虐に扱い、殺し、もう一度現れる存在が動物でありながら、これほどまでに読者に恐怖感を抱かせることが、私は不思議でなりません。なぜなら、「動物殺し」よりも「殺人」の方が、よっぽど読者を震えあがらせると思うからです。
 おそらくその理由は2点あります。一つは、私たち人間は、「動物殺し」よりも「殺人」に自分自身の身の危険を感じるからではないでしょうか。例えば今、街にナイフを振り回す人物が現れても、彼が狙うのが動物であれば、私たちは少なからず安堵するでしょう。2点目の理由は、人間はたいてい「動物は人間により下等だ」と考えているからです。やはり、動物虐待よりも、人間虐待の方が、事は大きく、かつ深刻にとらえられます。しかし、この作品で忘れてはならないのは、これは動物が人間に勝利する話だということです。無意識的に私たちが下等だと思っている存在によって、人間が制裁を加えられてしまうことそのことが、最終的に読者を驚かせ、恐怖を抱かせる、ということを、ポーは計算し、この作品を書いたのではないかと思います。
(椙浦由貴保 4年)

  • ブックアサヒコム書店
  • アマゾン
  • 楽天
  • 紀伊国屋
  • TSUTAYA

黒猫 (集英社文庫)

黒猫 (集英社文庫) 著者:エドガー・アラン ポー、Edgar Allan Poe、富士川 義之 出版社:集英社

キメラとしての黒猫

 アメリカ南部はメリーランド州ボルティモアの暗い街角で、数羽のカラスが黒猫の死骸をついばんでいる。と、黒いマントの男がその死体に近づき、猫の裂けた腹を開いて臓物をあらためる……。
 これは、今年10月に封切りされるジェームズ・マクティーグ監督作品「推理作家ポー」の一場面だ。このマントの男こそポーその人。本来なら目を背けたくなるような場面に、私が不思議と魅入られてしまったのは、ポーが生涯を通して描き続けたキメラがスクリーンの中にいたような気がしたからだ。
 キメラというのは、獅子の頭、山羊の胴体、龍の尾を持つギリシア神話の怪物である。ポーの「黒猫」の語り手は、はじめは愛情を注いでいたはずの黒猫を、飲酒が高じた結果、無惨にも虐待して殺してしまう。罪悪感から黒猫をまた飼うものの、猫に対する嫌悪感は募り、彼は再び猫に暴力を働く。虐待の理由を明らかにしないこの物語は、一見、不条理で異常な暴力性を、つまりポーの「天の邪鬼(あまのじゃく)」の精神を体現する。悪いとは分かっていながらも悪いことをせざるを得ない論理倒錯「天の邪鬼」。ポーは、このように正気と狂気、論理と直感、そして愛情と憎悪が複雑に絡み合う感情を「キメラ」と呼ぶ。ここが面白い。
 伝説上の怪物キメラは、英雄ベレロフォンに退治されてしまう。ポーの描く黒猫とマクティーグの映し出した黒猫は、キメラと同じように、無惨な死を遂げたかに思える。しかし黒猫に自身の心を反映させる語り手は、自らの狂気を正当化することで、死んだはずのキメラを甦らせてしまう。ここにこそ「黒猫」最大の恐怖がある。
(田ノ口正悟 修士課程2年)

  • ブックアサヒコム書店
  • アマゾン
  • 楽天
  • 紀伊国屋
  • TSUTAYA

ローズウォーターさん、あなたに神のお恵みを (ハヤカワ文庫 SF 464)

ローズウォーターさん、あなたに神のお恵みを (ハヤカワ文庫 SF 464) 著者:カート・ヴォネガット・ジュニア、浅倉 久志 出版社:早川書房

愛と病と男と女

 エリオット・ローズウォーター氏の見せる、行き過ぎた隣人愛について、この物語が少なからず称賛的であるのは間違いない。実際この物語を読んだ多くの人の目には、エリオットは大変魅力的な人物に映るはずだ。ところが、この何とも愛らしい男がほとんど見ず知らずの他人にさえ無償で捧げる愛の正体は、そのスケールとは裏腹に「症状」としてあっけなく分析されてしまう。本来ならばそれは、人間の倫理的敗北、喪失感といともたやすく結びつくはずだが、この物語の醸し出す雰囲気はそうした悲壮感とは無縁であり、むしろそのあらましを見つめる眼差しには、喜々とした子供らしい無邪気さすら感じられる。
 これがヴォネガット流のユーモアの成せる術だと結論付けるのは簡単だが、エリオットの病気にはそれ以上の何かがある。つまり私は、エリオットの真の病気とは、実はその過剰なまでの隣人愛にあるのではなく、それによって失われた別の愛、その喪失にあるのではないかと考える。それはずばり、憐れみのない愛である。
 エリオットは、金に限らずありとあらゆる徳に恵まれない人々を愛する術を知っているように見えるが、その愛は一種の狭窄に陥っているのではないか。少なくとも彼の、自らの妻や父親に対する態度に臨む限り、彼は自分の救済力が役に立たない人々、あるいはそれを必要としない人々について、その愛し方をまるっきり知らないのではないかと私には思われる。
 人類の歴史を通しておそらく愛は常に、同情や憐憫を越える高次の概念だった。しかしエリオットにおいてその境界は極めて不明瞭になり、愛は現実的救済と相対化され、崖っぷちで保たれていた崇高な意味内容はもはや失われてしまったに違いない。
 ビバ! ラブ&ピース!
(長野泰之 3年)

  • ブックアサヒコム書店
  • アマゾン
  • 楽天
  • 紀伊国屋
  • TSUTAYA

カート・ヴォネガット (現代作家ガイド)

カート・ヴォネガット (現代作家ガイド) 著者:伊藤 典夫、増田 まもる、永野 文香、中山 悟視、吉田 恭子、渡邉 真理子、巽 孝之、伊藤 優子(YOUCHAN) 出版社:彩流社

9月17日、原村、長野 

 合宿で今僕は長野の原村にいて、カート・ヴォネガットの初期長編『ローズウォーターさん、あなたに神のお恵みを』のレビューを書いている。行きのバスで例年考えるのは「僕はここに住めるか」ということだ。近隣最大の都市部の諏訪はお世辞にも街とは呼べない。空気はキレイだが娯楽がない。東京のようにキレイな女の子たちは見当たらない。穏やかな生活とつまらない日々の違いは何だろうかと考えていると筆が止まる。
 ヴォネガットの描く人々の多くは職業や身分の差こそあれ皆同様につまらない考えに捕われつまらない生活を送っている。つまらない考えとはたいていセックスとお金のことだ。高いヒールと仕立てのいい背広を身につけた都市部の人々がいうところの「愛」と「経済」である。ここで「ローズウォーターさん」のあらすじを無理矢理まとめるならば、大体こんな感じだ。
 慶應法学部出身で国会議員の父と芸術家の家庭に生まれた妻を持つ主人公のエリオット・ローズウォーターは戦後後遺症を患っている。彼はこともあろうに自らの資産を投げ打ち、一家の故郷たる長野は原村に移住し大衆紙のゴシップ欄を力ない目で眺める人々に財産を分与する。その他いろいろ。
 聖人のように聞こえるが、彼の行動は無垢な善意によるものではない。つまり世の悪、人の醜さをとことんあげつらいつつも人類愛を語るヴォネガット自身の狂気が多少なり反映されている。そもそもペシミストに限って人の愛に敏感だというのは都合のいい話じゃないか。とはいえエリオットのいうように一錠のアスピリンをワインで流し込みさえすればたいていの問題は解決するのだからどうってことはない。万事快調だ。
 原村に何もない夜が訪れた。何もない朝になってまた何もない生活が始まる。何もない毎日とつまらない生活が、何もなくつまらないからこそ愛おしいと感じられるようになったら、今身体を冷ましているこの風も違って感じられるようになるのだろうか。
(加島聖也 4年)

  • ブックアサヒコム書店
  • アマゾン
  • 楽天
  • 紀伊国屋
  • TSUTAYA

ヴォネガット、大いに語る (ハヤカワ文庫SF)

ヴォネガット、大いに語る (ハヤカワ文庫SF) 著者:カート・ヴォネガット、和田 誠、飛田茂雄 出版社:早川書房

生めよ、ふえよ

 もし、エリオット・ローズウォーターと野々宮冬彦が出会ったら、二人は何を話すだろう?
 この話の主役の「ある大きな額の金(マネー)」について、ローズウォーターはこう語る(ハヤカワ文庫、1982年)。あるSF作家会議でのことだ――お金は「この地球上で……とんでもない動き方をして」いて、他の誰とも同じようにこの世に生まれた自分が日に数千ドルを使えるのは「奇怪」で、だから聴衆諸君には、お金が「どんなにばかげたやり方で流通しているかをよく考えて、どうかもっといい方法をくふうしてくれたまえ」とお願いする次第。彼が案じたのは、慈善、もしくは「見捨てられたアメリカ人たちを愛」するという「芸術」だった。膨大だが無限ではないお金に溢れる「無差別な愛」を託して人々に渡し、彼は自分の芸術を追求する。そして、財団の相続をめぐる攻防が、血縁を主張する者はみな養子に迎えるという妙案により落着して物語は終わる。家族を拡張し、子どもたち「みんなを愛してる」と言うローズウォーターは深い慈愛に充ちている。でも同時に、「生めよ、ふえよ」とも言い添える彼にとっては、増えていく養子たちは、実は殖えていく利子のような存在なのかもしれない、という気がしないでもない。
 島田雅彦の『悪貨』に登場する野々宮は別の方法を考えた。貧困のなか最愛の母を亡くし、「カネを持っていても意味がないような社会になればいい」と願った14歳は、20年後、精巧な偽日本銀行券を大量流通させてインフレを誘発し日本の貨幣制度を終わらせ、自給自足共同体「彼岸コミューン」の貨幣アガペーが流通する世界を目指そうとする(講談社、2010年)。そして、彼の革命は失敗する。刑事のエリカをちょっと愛したせいだった。
 誰もが信じていたがるお金を操る二人は、たぶん、お金は愛の代わりになるようでならないが、ならないようでなるとうなずき合うのだろう。
(加藤有佳織 OG / 関東学院大学非常勤講師)

  • ブックアサヒコム書店
  • アマゾン
  • 楽天
  • 紀伊国屋
  • TSUTAYA

その名にちなんで (新潮文庫)

その名にちなんで (新潮文庫) 著者:ジュンパ ラヒリ、Jhumpa Lahiri、小川 高義 出版社:新潮社

「住処」としてのアメリカ 

 『その名にちなんで』はアメリカで、インド人の両親のもとに生まれ、ロシアの著名な作家からゴーゴリと名づけられた青年の成長を描く物語である。既に三つの異なる国名が挙がったが、どの国も彼を一義的に定義するには至らず、しかしどれも彼の一部だと言えるだろう。国境を越えた、こうした雑多なアイデンティティーこそ、移民2世世代を描く上で外せないファクターであるし、作者のジュンパ・ラヒリ自身が2世世代であることが、その生き生きとした描写を可能にしている。
 ただ、この作品を単なる成長物語に終わらせない要素として、移民1世世代、特に母のアシマの存在は外せない。父アショケに連れられてアメリカにやってきたアシマは、初めは慣れない生活に戸惑い、育児疲れから夫に激しく八つ当たりする場面もあった。しかし、最終章でインドへの旅立ちを前に、自宅で一人パーティーの準備をするアシマの姿は完全に「アメリカ人」然としている。例え、やって来る客のほとんどがベンガル人で、料理もインド風であったとしても、使用人の手も借りずに、招待客の人数を勘定し、たんたんと作業をこなすアシマは、ホームパーティーという文化をすっかり会得した「アメリカ人女性」である。
 「このペンバートン・ロードの家にいて、いまだにわが家と言い切るにはいたらないような気もするが、ここを住処(すみか)としたことに間違いはない」。33年間のアメリカでの生活を振り返った、アシマの言葉だ。アメリカは決して自分の故郷にはなりえない。だが、ここで過ごした日々の記憶は確実に身体に刻まれている。アメリカに生まれ、アメリカの教育を受けて育ったゴーゴリとはまた違ったアメリカという国との距離感が伝わってくる。
(宇野藤子 3年)

  • ブックアサヒコム書店
  • アマゾン
  • 楽天
  • 紀伊国屋
  • TSUTAYA

その名にちなんで (新潮クレスト・ブックス)

その名にちなんで (新潮クレスト・ブックス) 著者:ジュンパ・ラヒリ、小川 高義 出版社:新潮社

二つの国に挟まれて 

 インドからアメリカへ渡ったベンガル人の、2代にわたる30年の様子を、断片的に描いた『その名にちなんで』。アメリカで生まれたゴーゴリは自らの名前に違和感を覚え、インドの文化・伝統を重視する親の生き方に背を向けるようになる。結婚や離婚、身近な人の死を経験していくなかで、最終的には親から与えられた名前の重みを実感する。全体を通してゴーゴリの成長や母の変化、文化の違いを感じることができるが、私は思春期のゴーゴリの感情ひとつひとつが味わいを出していると感じた
 家族に連れられてカルカッタを訪れた際、「まわりの人間で仲間だと思えるのはソニアしかいない」と孤独感を覚える。話し方やものの見方が同じ妹しか受け入れることができない点に幼さが残るものの、どちらの国にもアイデンティティを感じることのできない不安定さがよく表現されている。
 また、恋人マクシーンの性格に驚きを隠しきれない場面も印象深い。人生をあるがままに肯定し、いまの自分とは違う自分になりたいと思ったことがないマクシーン。ゴーゴリにとって彼女の性格もまた、個が尊重される家族形態も全く異質である。よく異質なものを知ることで自分の慣れ親しんだものの良さに改めて気がつく、と言うが、心の拠りどころとなる国や文化のないゴーゴリにとって、異質なものは憧れや違和感を助長するものにすぎないように思う。
 結局のところ、自分の中に根づく幼い頃の教育や、それを大事に思う自分の存在に気がつき、自分で納得しない限り、自分探しの旅は終わらないのかもしれない。
(若狭真紀 4年)

  • ブックアサヒコム書店
  • アマゾン
  • 楽天
  • 紀伊国屋
  • TSUTAYA

停電の夜に (新潮文庫)

停電の夜に (新潮文庫) 著者:ジュンパ ラヒリ、Jhumpa Lahiri、小川 高義 出版社:新潮社

ひとりぼっちのあいつ 

 自分の「俊介」という名前を英語圏でマトモに発音された記憶がない。「シュンスキー」はまだいい方で、あるときは「シュスカ」、ひどいときは「サンシキ」と呼ばれたこともある。しかし不満に思っても仕方ない。それが自分の名前なのだ。
 ジュンパ・ラヒリ著『その名にちなんで』の主人公ゴーゴリ・ガングリーはその名の由来を文豪ニコライ・ゴーゴリに持つ。カルカッタからマサチューセッツに渡ってきた両親の下に生まれた彼は、ロシアの作家から取られたこの奇妙な名前を背負って生きていく。本来ならば、慣例に従ってカルカッタにいる彼の曾祖母が考えた名前が付けられるはずであったが、その名前を書いた手紙はインドからアメリカへ届けられる途中でなくなってしまう。そこで父アショケがインドにいた頃に愛読していた作家から、ゴーゴリと名づけられるのである。
 インドでもアメリカでもない名前は、ゴーゴリにとって自分の居場所をどこに置くべきかという葛藤をそのまま体現する。ホミ・バーバが言う “in-between space(中間領域)”の中で、彼はどこにも行き着けず彷徨い続ける。
 しかしラヒリは普通ならば「移民のルーツをめぐる葛藤」とでも言われそうな難しい主題をロックンロールなど大衆文化を巧みに物語に刷り込みながら描き出していく。ゴーゴリが熱心に聴くビートルズはその代表例である。決して頭でっかちにならないラヒリの作家としての懐の深さを感じさせる。
 さらにラヒリはこの物語をゴーゴリの成長と葛藤だけでなく、移民の第一世代としてのアショケと母アシマの姿を描く。彼らにとってかつての故郷カルカッタは故郷ではなくなりつつある。移り行く故郷のあり方をラヒリは親の世代を扱うことで見事に描き出す。
 アメリカの移民の物語と言われると、縁遠いと思われるかもしれない。しかし親からの遺産―例えば名前―や故郷について考えるとき、本書は私たち日本の読者にとっても大変興味深い視座を与えてくれる。
(志賀俊介 修士課程2年)

  • ブックアサヒコム書店
  • アマゾン
  • 楽天
  • 紀伊国屋
  • TSUTAYA

ページトップへ戻る