羊たちの読書会 1

 「知の技法」シリーズの編者として知られる文化人類学者の船曳建夫・東京大名誉教授が主宰する「羊たちの読書会」が始まります。文学部から医学部志望者までがいる東京大の1、2年生とそのOB・OGが集う名物ゼミ「儀礼・演劇・スポーツ」から発展した読書会で、さまざまな分野で活躍する、さまざまな年代の参加者が、大人の読書の楽しみを伝えます。正解を探すのではなく、それぞれの体験に裏打ちされた読書の広がりが楽しめます。
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 ふなびき・たけお 1948年、東京生まれ。94年、東京大学教養学部教授、2012年、名誉教授。専門の関心は、人間の自然性と文化性の相互干渉、儀礼と演劇の表現と仕組み、近代化の過程で起こる文化と社会の変化。編著書に、『国民文化が生れる時』(リブロポート)、『知の技法』(東京大学出版会)、『柳田国男』(筑摩書房)、『大学のエスノグラフィティ』(有斐閣)、『右であれ左であれ、わが祖国日本』(PHP新書)、LIVING FIELD(TheUniversity Museum, The University of Tokyo)などがある。
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 永井荷風の『墨(ぼく)東綺譚』の墨は、さんずいに墨ですが、閲覧環境によって文字化けするため墨にしてあります。

濹東(ぼくとう)綺譚 (岩波文庫)

濹東(ぼくとう)綺譚 (岩波文庫) 著者:永井 荷風 出版社:岩波書店

伝統受け継ぐ「季節に溶け込んだ自己」

 【船曳建夫】
 この小説は、永井荷風の、それ以上に近代散文の最高傑作の一つである。しかし、明治以来の文学を代表する最上の作品が、場末の遊郭における、初老の男と若い女との淡い交情とを描いた、中編にも見たぬ小品であるとは、いったい日本文学とはなんであるのか。
 『墨東綺譚』を読書会の最初の本に選んだのは、私自身の好みによる。この作品のもつ、夏から秋へ移り変わる情景のみずみずしさ、その中に点景と見えた人物が急にクローズアップされる画面の張り、それらが、主人公(作者)の、移ろいやすい天気のような老いの感覚を下地に、淡くスケッチされていく鮮やかさといったら、比べようもなく心にしみる。この作品についての評は、幸田露伴が言ったとされる、「永井は妙な話を、涼しげな文章で書いたよ。」に尽きよう。そして、もっと直截な、三島由紀夫による「一番下品なことを一番優雅な文章で・・書く」に。
 (確かに、荷風は十分に下品なのである。その日記、「断腸亭日乗」によれば、この小説の前年、風呂に誘ってわがものにした女中に逃げられ、がっくりとして明くる正月三十日、「帰朝以来馴染を重ねたる女」を十六人、「此の外臨時のもの挙ぐるに遑あらず」と注記を入れて列挙したりする。もちろん、文語調の涼しげな文章で。しかしそのあたり読書会の若者たちは、軽やかに、深入りしなかったことを報告したい。)
 注意すべきは、この何気なく「わたくしは殆ど活動写真を見に行ったことがない。」から始まる小説に、当時の欧米文学のいくつかの前衛的な、たとえば、小説の中に小説を入れるメタの手法などが意識的に取り入れられていることである。しかし、そうしたことは古びよう。何よりも特徴的なのは、随筆のようであり日記のよう、でありながら物語でもある、という、王朝文学以来の日本の伝統を、それと見せずに受け継いでいることである。季節に溶け込んだ自己がよしなき想いを書き綴るもの、それが日本文学であったればこそ、この小説が、その代表作となるのだ。

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ぼく東綺譚 (新潮文庫)

ぼく東綺譚 (新潮文庫) 著者:永井 荷風 出版社:新潮社

瀬戸際の日本での抵抗の形

 【蒲谷秀巳 85年入学 電通勤務】
 原発を選ぶか選ばないかという瀬戸際に立たされた現在の日本と、満州侵攻に突き進むしかないかのような瀬戸際の昭和11年の日本とを対比させてこの古典を読み解く、というのが船曳先生の企みだった。だがそれは「断腸亭日乗」など他の文献にも頼らないと荷風の本心は見えてこないので、いったんこの問題は措(お)くとする。
 この小説は中編ならではの魅力に満ちている。随想風に季節の移ろい、関東大震災後10年ほど経った東京の変貌の様子、市井の人々の生活の変化などが描かれる。古き良きものが概して彼の美観に反する新しいものに置き換えられる変化である。多くのことが語られるがその期間は6月から9月のたった3ヶ月でしかない。その短い季節の間に、東京の中心からやや東にかたよった玉の井のラビラントにいた24歳の雪子に偶然のようにしかし必然に出会い、彼女に心惹かれた60前の男の心、そして女の心の移ろいが丹念に記録される。
 時代の変化が苦々しい荷風にとって、島田に結った古き良き雪子と彼女の生活は郷愁を感じる大切な、いとおしいものである。正直なところ、単純な男の読者としてはこの男と女の淡い物語に一種の憧憬をもって読んだだけなのだが、読書会には女性の読者もいて、女性から見た倫理性も話題になった。だがそこでは目くじら立ててこのラビラントの存在や男女の営みを非難する人はなく、むしろ「白玉を食べる場面が好き」と語った30代の女性もいらしていささかほっとした。
 さて冒頭に述べた企みについて。荷風はその日記で当時の軍国主義的な全てを蛇蝎(だかつ)のように嫌っていることを執拗に表明している。さらに国民が無気力で従順なことを責めている。とはいえ、彼が実生活で反戦運動を仕掛けた記録はない。だがそのような時代にあってこの中編のなかであえて過去の美しいものを愛で、軍靴の音を一切無視しているのは知識人としてできる限りの抵抗であった、ということなのであろう。

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〓東綺譚(ぼくとうきだん) おもかげ (荷風全集 第17巻)

〓東綺譚(ぼくとうきだん) おもかげ (荷風全集 第17巻) 著者:永井 荷風、永井 壯吉、稲垣 達郎、竹盛 天雄、中島 国彦 出版社:岩波書店

近代の孤独な日本人の夢

 【山本壮 08年入学 法学部4年】
 『墨東綺譚』で描かれる世界は、昭和の寺島玉ノ井の風景を知らなくとも、どこか懐かしく、心地よい感じがする。それは、主人公である老齢の作家、大江が、玉の井に、過去の情景を呼び起こす夢を投影したからである。『墨東綺譚』は近代の孤独な日本人が、心に描いた夢物語である。
 梅雨明け前、驟雨雷鳴の中の出会いから、秋の彼岸の別れまで。大江は、先行きに暗雲が立ち込める昭和10年代の日本から逃げるようにして、玉の井を訪れる。そして私娼妓・お雪の家で、静かではあるが、充実した一時を過ごす。
 『墨東綺譚』の世界は、見るに堪えない現実からの逃避としての夢であるからこそ、幻想的、魅力的なものとなり、読者の心に響いてくる。
 玉の井の風景は、東京中心部の市街の風景と比較される事によって、情緒あふれるものとなる。蚊のわめくどぶぎわの家は、銀座の灯火に嫌悪する者が見なければ、風情は感じられない。また、娼婦と客と言う関係を超えて、互いの善意のみによって維持される、お雪と大江の淡い関係。彼らの何気ない会話や、食事の様子が愛おしく思えるのは、世間から疎外された見知らぬ男女が、他人として交流できる事が、日本社会においては新鮮だからである。
 大江の夢は、お雪が二人の関係を進めようとし、それに対して大江が身を引くことによって、はかなく終わりを告げる。
 大江がお雪に見た、逃避としての夢は、あくまで現実を忍ぶために求めたものである。夢は、可能性に留まらなければならず、現実になった途端に、価値を失う。そして、老齢の大江は、その現実に立ち向かう気力もない。そのため、大江は自らの夢物語を、感傷を込めて締め括るのである。
 『墨東綺譚』は、生の実感を得たいがゆえに見る夢が、決して実現しないはかなさを描いている。そのはかなさは、現実と折り合いをつけつつも、夢を見たい現代の読者が望む物語である。

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人間臨終図巻1<新装版> (徳間文庫)

人間臨終図巻1<新装版> (徳間文庫) 著者:山田 風太郎 出版社:徳間書店

私たちは社会の中に関わりもなく棒立ちしている

 【船曳建夫】
 山田風太郎、リアリストの面目躍如である。古今東西、九百人ほどの人間の、臨終の様子を描いたこの作品は、死を軽んずる人に重い死が、死を重んずる人にあっけない死が、そして軽んじても重んじても等し並みに死がやってくること、それを書きわたって、文庫で四巻となる。
 もとより山田風太郎、とらえきれない作家である。推理小説で一家を成し、くノ一忍法帳をはじめとする「忍法」の多彩で読者を幻惑し、「明治もの」で新境地を開き、「室町もの」の愛読者ならばその分野が彼の真骨頂と思うだろう。しかし、私は、本作のようなエッセイ、そして日記が、彼の最後まで残る散文作品かと思う。
 愛読者ならば、風太郎が、若くして父母を失い、複雑な経緯で養父母の元で育ったことを知っている。そうしたことが彼をして虚無的にした、というのは、あまりに簡便な推論だが、おそらく彼自身もそうした自己規定を行っていたのだろう。そうしたスタンスがこのような書物を編ませた、と考えてもよいだろう。
 本作を読めば、死がいつどのようにやってくるか分からないことが、どんな死も、その訪れを一つのドラマにしていることが分かる。本書は、有名な人物の死が、死亡年ごとに分けられているだけで、並び順に規則はない。だから、ある一人に結末が来ると、すぐに次の一人のエピソードが唐突に始まり、それは図らずも、私たちが社会の中に、関わりもなく棒立ちしていることを示してくれる。死だけが共通項である、圧倒的な散在感。
 若者による読書会でこれが取り上げられたのは意外なようでいて、当然のことだ。本書には、沢山の死が描かれている中に、さまざまなエピグラフが挟み込まれているのだが、その中の、「死をはじめて思う、それを青春という。」が直接に示す。
 彼自身の死は? それは、晩年のエッセイで、しきりに触れられている。その執拗さにはリアリストというだけでなく、のちに残る私たちへの博愛を感じる。

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人間臨終図巻2<新装版> (徳間文庫)

人間臨終図巻2<新装版> (徳間文庫) 著者:山田 風太郎 出版社:徳間書店

私の「生きるための本」

 【林真巳子 05年入学】
 人から好きな本やおすすめの本について聞かれたら、まず『人間臨終図巻』だと答えるようにしている。すると、たいていの人はぎょっとする。おそらく「図鑑」だと思われているのだろうと思う。あくまで本書は「図巻」である。900人ほどの著名人の死のありさまが、彼らが死んだ年齢順にひたすらに叙述される。描かれるのは臨終だけでなく、その人に関する情報が時に余計なひと言も含めて、非常に簡潔に伝えられる。15歳から100歳代まで、もうこの世にいない、生きた時代、亡くなった年齢、国籍の違う様々な人生を眺める。なかなかできることではない。しかし、説明すればするほど、苦笑いをされる。こういった反応を見るにつけ、「死」を語ることそのものが禁忌と考えられているように思えてならない。とても残念なことだと思う。
 最後まで読んだ時に、最初に考えたのは「人間はみな生きて死んでいくんだ」という至極当たり前のことだった。しかし私は、初めてこの当たり前の事実を実感したような気がした。私も今生きている以上、いつかは死ぬ。本当に当たり前のことだけど、初めて心から理解したと思った。そしてもう一つ考えたのは、「自分の死でも、死んだら自分のものではない」ということだった。山田風太郎は別の著書で、「葬式は生者のための儀式だ」と書いているが、死んだら自分の意思とは無関係に、自分の死は咀嚼されていく。事実、私はこの本に出てくるおびただしい数の死を解釈し自分の記憶にとどめた。それは彼らの意思とは無関係である。けれど、それによって私は生かされているのだと思う。私は彼らから学び、自分の生に活かしている。だから本書は私にとって、「生きるための本」である。
 最後に、多くの著名人が出てくる本書は優れた教養書でもある。だから若い人にこそ読んでほしい。コンパクトにまとめられた情報から、その人の生に興味をもち、今まで知らなかった人生を知ることができるだろう。

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人間臨終図巻3<新装版> (徳間文庫)

人間臨終図巻3<新装版> (徳間文庫) 著者:山田 風太郎 出版社:徳間書店

文学のプロトタイプ教本

 【山口 修 96年入学】
 4年前、輝かしい未来をもたらす救世主であるかのごとく全世界中の人々を魅了したはずが、いまや灰をかぶったようにすっかり疲労困憊した表情を見せ、場合によっては来年その姿を消すことになるかもしれない第44代アメリカ合衆国大統領バラク・オバマは、その数々の名演説の中で、「change」や「Yes, we can」といった殺し文句を連呼して聴衆をしばしの恍惚へと誘ったのだが、オバマがその短い演説においてあれほどまでにいきいきと人々の心に強く訴えかけることに成功した秘訣は他でもない、オハイオで一生まじめに働いてきた女性、あるいはインディアナのある男性、と例示し、また、アトランタで投票したひとりの女性、アン・ニクソン・クーパーの物語を語る、その「固有名詞」の用法にあったと思われる。
 『人間臨終図巻』はつまるところ、「ある固有名詞の人」が「死ぬ」、という一文の繰り返しでしかない。「固有名詞」は、それ自体では何ら事物を同定するための規定力をもたず、「死ぬ」と発話することもまた、我々は生きている時のことしか語れない以上、何も積極的な意味を付与しえてはいない。つまりこの一文は、「無規定」が「無規定」である、と同義であり、有意味の世界において何も言っていないことと同じである。
 しかし、逆にこのことがありとあらゆる物語のヴァリエーションを可能にする。固有名詞は、それにまつわる歴史とイメージのすべてを吸収し人々の心に豊かに膨れ上がる。また逆説にも、死ぬことを語るには、いかに生きたかを語るしか方法がなく、こうして膨れ上がった固有名詞から無限に生が備給されることになる。死ぬことの到来は遅延し、文は終わらない。人々は、『人間臨終図巻』におけるその一文一文の、延々と読点によって連ねられたその長さと、文頭と文末でいつの間にかずいぶん遠くまで記述が運ばれていくことに、逐一驚くことになるであろう。
 これは文学のプロトタイプ教本である、とは果たして言い過ぎであろうか。

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闇の奥 (光文社古典新訳文庫)

闇の奥 (光文社古典新訳文庫) 著者:ジョゼフ コンラッド、Joseph Conrad、黒原 敏行 出版社:光文社

読み通せなかった理由

 【船曳建夫】
 高名なこの小説を、私は読んだことがなかった。読んだような気がしていたのは、自分の本棚にこれがあったからで、それによって、むしろ、なぜ、途中で読み止(さ)してしまったかを、この読書会を機に、考えさせられた。
 読んでいないことがとりわけ気になっていたのは、私が文化人類学者であることから来るだろう。アフリカ奥地に赴く主人公の前に立ちふさがる「Heart of Darkness」、それは、人類学者の基本的な方法であり重要な経験となるフィールドワークにおいて、いやでも立ち向かわねばならない対象なのだ。ある社会を集団としてとらえ、そこに単身入ってゆく。アフリカ奥地ならずともそうした困難さ、不可解さは、人類学者の仕事にはつきまとう。とりわけ、私自身のフィールドが太平洋の島の奥の熱帯林であり、私がその流れの中にある英国の社会人類学者たちのあいだでは、ほっといても読んでいることになっている、たとえば『こころ』、『羅生門』のような小説であったからであったからだ。
 しかし、と私は思う。この「闇」を、一人の日本に生まれ育った人類学者である私は、共有しているのだろうか。結論を急げば、それは、たぶんにあやしいと思う。この作品が、近時のポスト・コロニアルなるカタカナの流行りでは、必読文献であるようだが、「植民地」、「外地」の体験が、ヨーロッパのそれと日本人とでは、違うものがある。「闇」から滲み出す狂気という問題設定が私たちには、身体的にずれているような気がする。私がこの小説を途中で読み止したのは、そこであろう。
 読書会の中で、「闇」の色が問題となった。私にはそれは漆黒としか思えなかったが、討議の中から、白濁と言うこともあり得ると気づかされて、目が開かれた。ポスト・コロニアルの問題はおそらく「歴史問題」という主題名で、現在、私たちに与えられているのだと思う。その時、立ちはだかる光景の色は、「韓国」であれ「中国」であれ、もう少し乾いた、茶褐色の砂塵のように思える。その時、キーワードは「狂気」ではなく視界の閉ざされた「不安」か。

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闇の奥 (岩波文庫 赤 248-1)

闇の奥 (岩波文庫 赤 248-1) 著者:コンラッド、中野 好夫 出版社:岩波書店

掃除機のようなアフリカ奥地

 【吉野太基 11年入学 教養学部2年】
 暗闇の中、川に浮かぶ船の中で語りは始まる。語り手であるマーロウは船乗りとしてアフリカの奥地へ自ら進んで赴いた。アフリカの奥地へと川を上る船で起こった出来事と語りの状況は相似の様相を呈し読者を闇へと引き込むように感じられる。
 冒頭を読み進めていくと、話の内容を理解することが大変困難であることに気付く。そこで初めて読者は〈闇〉を突きつけられる。わからないまま読み進めていくと、アフリカの奥地での出来事が描写され始め、だんだんと展開がかすかながらも見えてくる。より奥地へと進むにつれ、一方マーロウたちの状況は厳しくなる。船の不調から始まり、原住民の攻撃を受けるなどまさに前途多難である。
 本書で描かれているアフリカの奥地は掃除機を想起させる。吸い込み口から遠くにあるものはゆっくりと吸い寄せられていく、近くにくると一気に吸い込まれてしまう。吸い込まれたあとどうなるかは誰も知らない。そんな恐ろしくもあり単純でもある力を秘めたアフリカの描写として捉えたい。描写される情景がまざまざと脳裏に浮かぶほどすぐれた状況描写でありながら、単に網膜的に状況を鑑賞することは許されず、読者に思考を促す豊かな文章である。
 航空網が発達し到達困難な極地が少なくなった現代において、船舶が唯一の外国への移動手段であった時代に書かれた本書を読み直すと、違和感や既視感を感じるかもしれない。本書は現代人の世界感を問い直しつつ、人間が感じる〈闇〉について考えることを促す小説である。

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