羊たちの読書会 5

 政治についての古典を読んだ。それはあまりに「政治」が僕にとって分からなくなっているから。「行政」はサービス業だから、受け手として、その良し悪しが分かる。政治の一つの側面である「外交」も自分を一国民として「国益」を基準にしてみれば、比較的わかりやすい。しかし、それらを覆い漂っている茫漠とした「政治」とは何なのか? 政治家たちの自己利益の争いと戯画化すれば分かる。けれどもそれだけではないだろう。僕たちの未来を指し示すはずの何かだ、と思いたい。しかしそう思うと、とたんにいまの政治は、日本の内外共に、混迷する無秩序な力のせめぎ合いとして立ち現れて、訳が分からなくなる。さて、それで、この2冊、マルクスの『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』と、ウェーバーの『職業としての政治』を読んだ。果たして何が分かったのか、または分からなかったのか。(船曳建夫)
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 「知の技法」シリーズの編者として知られる文化人類学者の船曳建夫・東京大名誉教授が主宰する「羊たちの読書会」の第4回は谷川俊太郎『二十億光年の孤独』、関川夏央『現代短歌 そのこころみ』、松尾芭蕉『おくのほそ道』の3点を取り上げます。文学部から医学部志望者までがいる東京大の1、2年生とそのOB・OGが集う名物ゼミ「儀礼・演劇・スポーツ」から発展した読書会で、さまざまな分野で活躍する、さまざまな年代の参加者が、大人の読書の楽しみを伝えます。
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 ふなびき・たけお 1948年、東京生まれ。94年、東京大学教養学部教授、2012年、名誉教授。専門の関心は、人間の自然性と文化性の相互干渉、儀礼と演劇の表現と仕組み、近代化の過程で起こる文化と社会の変化。編著書に、『国民文化が生れる時』(リブロポート)、『知の技法』(東京大学出版会)、『柳田国男』(筑摩書房)、『大学のエスノグラフィティ』(有斐閣)、『右であれ左であれ、わが祖国日本』(PHP新書)、LIVING FIELD(TheUniversity Museum, The University of Tokyo)などがある。

ルイ・ボナパルトのブリュメール18日―初版 (平凡社ライブラリー)

ルイ・ボナパルトのブリュメール18日―初版 (平凡社ライブラリー) 著者:カール マルクス、Karl Marx、植村 邦彦 出版社:平凡社

劇的ではない政治の時代

 【船曳建夫】
 この警句と決めぜりふだらけの著書の中でも、極めつきのそれは冒頭の「ヘーゲルはどこかで、すべての偉大な世界史的事実と世界史的人物はいわば二度現れる、と述べている。彼はこう付け加えるのを忘れた。一度は悲劇として、もう一度はみじめな笑劇として、と」。若きマルクスは、そこから一気呵成に、ルイ・ボナパルトの演じたコメディーを書き連ねる。
 なるほど、それはよし。ただ、そうした世界史的事実が三度、四度と現れている、いまの世に生きる僕たちは、どうしたらよいのか。
悲劇についてはもう一冊のウェーバーの時に考えよう。考えたいのは、毎日繰り返される政治のコメディーだ。僕が初めてパリに行った1970年の秋、ド・ゴールが亡くなった。そのあとを継いだ、ポンピドゥーという人の小物ぶりをみなは笑ったものだ。しかし、その後フランスは、縮小再生産のように ー ミッテランを多少の例外として ー 小さな大統領を生み続け、いまや、サルコジでオランドだ。イギリスもしかり、アメリカもしかり。政治が笑えない笑劇、コメディーになっているのは日本だけではないのだ。
 本書でマルクスは、心の底に、ナポレオンの偉大さの影を抱いているようだ。しかし、ナポレオンは、田舎貴族であれ、近代以前の身分制の中から出てきた。彼ですら「身分」という文化がもたらすオーラをまとっている。近代に入って、民主主義の生んだ偉大な政治家の多くも、じつは、前近代の「身分」の土壌から出ている。チャーチルであれ、ド・ゴールであれ、ルーズベルトであれ、そうなのだ。 そうした身分が生み出す「世界史的」とマルクスが呼んだ「大きさ」は、民主主義が徹底し、身分が相対化されれば消えてくる。そこは、マルクスも気づいていなかったようだ。
 僕たちの政治に、もはや前近代的なドラマ性を持ったヒーローは生まれないように思える。せいぜいが学歴エリートや金融資本主義の生んだ「金持ち」が、疑似的に庶民離れをしているだけだ。とすると、マルクスが付け加えるのを忘れたのは、「それが三度、四度と繰り返されると、もはや悲劇でも笑劇でもない」ということではないか。僕たちが、いま、笑えない笑劇を耐えていることの先にあるのは、政治が「劇的」、ドラマチックではなくなる未来であろう。

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ルイ・ボナパルトのブリュメール十八日 (岩波文庫 白 124-7)

ルイ・ボナパルトのブリュメール十八日 (岩波文庫 白 124-7) 著者:マルクス、伊藤 新一、北条 元一 出版社:岩波書店

イメージに向き合う精密な筆致

 【吉川慶彦 文科一類2年】
 「読書会でマルクスを読む」ということを話すと、親しい人に訝しがられた。どうもマルクスには特定のイメージが付きまとうらしい。
 この、特定のイメージというのが、本書では重要な要素を占める。ここではマルクスのそれではなく、本書の主題であるルイ・ボナパルトのそれであるが、ナポレオンの甥でしかなかったルイ・ボナパルトは、この特定のイメージを利用して、全国民を代表する存在となった。彼が全国民・全階級の代表者たることは有り得ず、「他の階級から取って来なければ、どの階級にも与えることができない」。まさにイメージの上に成り立っている存在でしかないということを、マルクスは本書の最後で明らかにする。
 このことはメディアによって選挙の行方が左右される現代日本の政治社会状況を念頭において、教訓として読むべきなのだろうか。あるいは、1930年代のドイツや日本におけるファシズムの台頭を分析する、物差しとして読むべきなのだろうか。マルクスは、決してこの代表者の出現をルイ・ボナパルト個人の能力に帰することはない。むしろ、本書では議会政治の仕組みから、各党派の趨勢までが精密な筆致で追われる。本書は、単なる教訓・物差しではなく、もっと根本的な何か、構造的な問題とでもいうべき必然性を、歴史の叙述の中で示している。
 最後に、マルクス自身もおのおのの政党・党派・政治団体について、イメージを元にして本書を著したということを考えておきたい。どれだけ精緻な分析を心がけても、物事を描き出すという行為はイメージの域を出ないのではないか。むしろ、そのイメージに向き合い、イメージ自体をどう自分で構築していくかということが本質であるのかもしれない。なおも同じ構造の上でボナパルティズムの出現を待つのか、他の道を行くのか。精密な筆致による自覚は我々に選択の余地を与えてくれると信じたい。

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ルイ・ボナパルトのブリュメール一八日/経済学批判要綱「序説」「資本制生産に先行する諸形態」/経済学批判「序言」/資本論第一巻初版第一章 (マルクス・コレクション)

ルイ・ボナパルトのブリュメール一八日/経済学批判要綱「序説」「資本制生産に先行する諸形態」/経済学批判「序言」/資本論第一巻初版第一章 (マルクス・コレクション) 著者:カール マルクス、Karl Marx、横張 誠、今村 仁司、木前 利秋 出版社:筑摩書房

なぜドイツでナチスが台頭したか

 【山森康平 04年入学】
 かなり読み解くのが難解な本だった。というのが、自分に限らず、読書会当日も上がった感想であった。自分は社会人になってからというもの、効率を追求するあまり、「序文⇒目次⇒後書き⇒本文」で読み進める、という悪癖を身につけた。今回は素手でマルクスに挑もうと果敢に読み始めてみたものの、途中であえなく柄谷行人のあとがきを読むことにしてしまった。読書の目的を何に据えるか次第ではあるが、仮に「マルクスとの格闘」、と考えれば、これは「答え」を見ながら問題集を解くようなものであり、明らかに敗北と言わざるを得ない。
 私の個人的な体験はさておき、本書ではマルクスが「中庸でグロテスクな一人物が主人公の役を演じることを可能にする事情と境遇を、フランスの階級闘争がいかにして創出したか、ということを証明する」と述べているように、ナポレオン1世の甥であること以外に取り柄もなく民衆からもバカにされていたルイ・ナポレオンがスルスル/いつの間にか国家元首に上り詰める様子が描かれている。同時代を生きた、共産主義者であるマルクスにとってはそのこと自体が、彼にとっての一種の敗北であった。敗北へ至る過程を、マルクス自身が描くことによって、逆に力強さと異様な説得力が生まれている。そしてルイ・ナポレオンの個人としての能力を超えて、社会構造的ゆえに起きた現象であることが、論理と執念をもって語られている。
 そのリアリティーに加えて、読者を引き込むのは「代表する者と代表される者の乖離」というテーマであった。ある集団の「代表とされる人々」がさらに「代表を選ぶ」ことによる断絶。この切り口で考えれば、第2次大戦前のドイツという代表民主性が十分に機能していた国家において、ナチスが台頭するという一見矛盾を孕んだ現象にも説明がつく。
 マルクス自身の強烈な個人的経験(敗北)と普遍的テーマの掛け合わせ、骨太過ぎて手に余るというのが正直なところだったものの、私に19世紀フランスをのぞき見る窓を与えてくれすてきなタイムスリップをさせてもらった。

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職業としての政治 (岩波文庫)

職業としての政治 (岩波文庫) 著者:マックス ヴェーバー、Max Weber、脇 圭平 出版社:岩波書店

政治「のために」生きる者と政治「によって」生きる者

 【船曳建夫】
 評者はつい最近、身内が立候補する事態によって政治、特に選挙に関わることになり、本書で論じられている権力、暴力、倫理という、政治において対処も操作も難しい概念を、正面から考えねばならないことになった。ことにウェーバーの言う政治の根幹である「権力の追求」が、日常的なレベルのモラルや、高邁な理想をしばしば裏切る結果になることを、まだ権力が得られていない選挙の段階でも感じさせられた。
 そこで思い出したのが本書の、あまり取り上げられないが、重要な論点である、政治「のために」生きる者と、政治「によって」生きる者、との対比であった。この二種の分類は、前者が「政治から得られる収入に経済的に依存しないですむ」高潔な政治家を、後者は、「政治を恒常的な収入源にしようとする」卑俗な「政治屋」を示唆しているように見える。ところが、ウェーバーは、本書で後者の政治の世界で右往左往するさまざまな人々を「職業としての政治」家として取り上げているのだ。
 この対比を指摘した箇所(岩波文庫版、22頁)ののち、彼の議論の筋を大きくつかめば、政治家が自己の利益を誘導するかどうかは、 経済的な自立のための恒産があるかないかに関わりがない。むしろ、常に自分と周りへの利益誘導の危険をはらみ、時にはそれを犯しながらも遂行していくのが政治の現実である、となる。そこから、議論は暴力装置の扱いの危うさと、政治家への悪魔の囁きとの葛藤に至るのだが、彼の考えている「職業としての政治」家は、そうした、宗教的な安心立命など得られない俗的世界の中で、「それにもかかわらず!」と言い切って活動を続行する人間なのだ。
 思えば本書の10数年後に権力を奪取したナチズムは、その支持者にとっては高い理想と、高潔な態度まで兼ねた指導者による政治活動であったのだ。他人に悲劇をもたらすヒーローは、少なくとも生前はステーツマンとして祭り上げられることを思えば、政治屋を揶揄することをもって政治批判とすることは慎まねばならない。むしろ、小さな政治家の小さなアイディアがちまちまと積み上げられていくことをもって良し、とすることが、上に評したマルクスの書と同じく、本書から得られる、これからの政治に関する態度であろう。

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職業としての政治/職業としての学問 (日経BPクラシックス)

職業としての政治/職業としての学問 (日経BPクラシックス) 著者:マックス・ウェーバー、中山 元 出版社:日経BP社

良い政治家は恋愛が得意か

 【山本壮 法学部4年】
 政治といえば、今年の夏は参院選があって暑い夏を余計に暑苦しくしていた。僕は選挙事務所のスタッフをしたこともあり、知人たちと政治・選挙に関する話をよく交わした。
 その中で心に残った言葉。
 大学の同期。「政治ってさ、ただの混乱現象だよね。安定ということは存在しないのかね」
 90歳のおばあちゃん。「足が動かなくなっても、やっぱり投票には行きたいのね。日本にいるのだから、日本の政治に参加したいと思っている老人は多いはずよ」
 友人のウグイス嬢。「街中で大声を出すのはストレス発散になりますよ。選挙ってお祭りみたいなものですね」
 そして、マックス=ウェーバー。「政治とは、権力の分け前にあずかり、権力の配分関係に影響を及ぼそうとする努力である」
 ウェーバーが言っているのは、ただ「政治」の原動力は権力(暴力)であり、政治に関わるものは一定の資格と覚悟が必要であるというだけである。おそろしくシンプルだ。シンプルであるがゆえに、その言葉は政治の本質をついている。
 一方で、僕らは普段、政治を純粋な権力ゲームとしては見ていない。最初に書いた人々の言葉は、その人の政治に対する「イメージ」を示している。混乱のイメージ、参加のイメージ、お祭りのイメージ。我々は様々なイメージを心に抱いて、何らかの形で(政治忌避という形もありうる!)政治に関わっている。僕らの政治は、本質とイメージの間を揺れ動きながら、アメーバのように不安定な揺れの中でまとまっているのだろう。
 本質とイメージのズレという緊張関係の中で生きるということ。その点で、結局、政治は恋愛みたいなものだ(と僕は思う)。恋愛が自分のイメージを追求しすぎたり、あるいは相手の本質を見極めすぎるとうまくいかないのと同じように、政治も権力闘争という本質か、自分の理念(イメージ)の追求かのどちらかに偏ってもうまくいかない。政治家たりえる者とは、良い恋愛が出来る者と同じく、本質とイメージの中でさまよいながら、バランスをとって「生の現実に耐え、内面的に打ち勝つ能力」を持つ者でなければならない。ウェーバーはそのように、政治家たる者の資格を見定めている。
 イメージが氾濫する世の中だが、私たちは本質を見失わないためにも、「政治」を考える際に何度も戻ってくる点の一つとして「職業としての政治」は本棚に置いておくべきなのだろう。

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職業としての政治 (ワイド版岩波文庫)

職業としての政治 (ワイド版岩波文庫) 著者:マックス・ヴェーバー、脇 圭平 出版社:岩波書店

ヴェーバーが学生に伝えたかったこと

 【杉浦直重 98年入学】
 「私の話はいろんな意味で、きっと諸君をがっかりさせるだろうと思う」
 今なお各所に引用されるという本書は、「職業としての◯◯」シリーズの一つであり、言わば「お仕事図鑑」である。 政治家=スペシャルな職業? 時にそう思えるが、農家や医師のように子供でも知っている有名なお仕事である。タイトルで誤解したが、本書は政治の評論書ではない。それについてはヴェーバーが冒頭で述べる通りであり、政治をカッコ良く語りたい人には適さず、むしろ政治学へのゲートウェイとして貴重な一冊である。私にとっては「初めての政治学」で、印象深い体験となった。ただ少し…難しく、滑走路が長い。
 一次大戦後のドイツ、学生に講演を依頼されたヴェーバーが「政治とは」について語り始める。封建時代から近世まで各国を例に挙げ、序盤は歴史の講義みたいなのである。しかし話題が近代に入ると、徐々に燃え上がるほどヒートし、自国への批判も飛び出す(「いまの政治については語らんからね!」と最初に言ったのに)。いよいよ終盤、若者へのメッセージが熱い。
 10年後、期待していた世の中にはなっていないだろう。諸君はその時どうなっているだろうか。すっかり俗物になり下がって、ただぼんやりと渡世を送っているか(ッッッ!?)。冷徹なプロたる官僚と、自分の信念を貫く政治家、どちらが欠けても近代国家は成立しない。我がドイツの官僚は世界一、だがそれが議会主義を弱体化させた。だから諸君には立派な指導者になって欲しい。どんな事態に直面してもくじけず「それでも僕は!」と立ち上がって欲しい。思うに、晩年のヴェーバーが伝えたかったのは案外こういうことかも。果たしてドイツには20年後「カリスマ」で「芸術家」で「政党」の男が現れた。だが不幸にも次の大戦へと…。学生達も狂乱に巻き込まれていったのだろうか。
 余談だが、この読書会が行われたのは参議院選挙の直前であり、船曳先生は街宣カーでの演説からの帰りで、ゼミ生にはウグイス嬢を勤めた帰りの方も。選挙事務所で開催しようか? なんて話も出ていた。この本は、こういうエナジーあふれる環境に感化され、アツく読破するのが良いと思った。ヴェーバーの理論は他で学べるが、彼があえて「がっかりさせるけどさ!」と聴衆に断ってまで語った情熱は、この本でこそ感じられると思うので。

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