「広い視野で次世代の古典を」創刊90年の岩波文庫・入谷芳孝編集長に聞く

2017年06月29日

入谷芳孝編集長。手にするのは創刊時の文庫の復刻版と今の『こころ』

創刊80年記念時に発売された文庫23冊と新聞広告がセットの復刻版

入谷編集長の年季が入った文庫目録と一般向けの文庫目録

読者プレゼントの「木のしおり」と「私の三冊」の掲載号

ジュンク堂書店京都店の岩波文庫創刊90年記念フェア

 今年7月、岩波書店の「岩波文庫」は創刊90年を迎える。1927年(昭和2年)の創刊以来、「古今東西の典籍を厳選しつつ人々の心の糧として提供する」という志のもと、戦争や恐慌などの困難な時期を乗り越え、数々の後世に残る本を出版してきた。
 岩波文庫の出版点数は、現在、累計で約6000点にも上る。岩波文庫のおかげで、『ソクラテスの弁明・クリトン』や『論語』、『銀の匙』などの名作を知ったという人も多いのではないだろうか。岩波文庫が考える古典とは何か、これからの古典をどのように考えているのか、岩波文庫編集長の入谷芳孝さんに聞いた。

■後世に残す本として万全を期す

 ————岩波文庫は、ドイツのレクラム文庫に範をとり、創刊されたそうですが、創刊の理念をあらためて教えていただけますか。
 入谷 過去の古い本が古典だというイメージを持つ方が多いのではないかと思うのですが、私はそうとは限らないと思っています。書かれた時代に関わりなく、現代に生きる私たちが読んでも十分に興味深く、感動する書物、再読、三読に耐えられる本こそが、古典と呼ばれるのではないでしょうか。
 国の文化水準は、古典をどれくらい尊重しているかで分かる、と考えられていた時代もあったと聞きますが、岩波文庫の創刊者たちにも、古典を普及させることで、教養を高める機会を広げ、日本の文化水準を上げていきたいという志があったようです。

 ————だからこそ、岩波書店の「永遠の事業」として継続するという決意も生まれたのですね。
 入谷 そうかもしれませんね。今、編集にたずさわる私たちも「後世に残す本として万全を期す」という心構えで日々、取り組んでいます。一般的な書籍であれば、今の読者に受けるかどうか、という視点を重視して編集すると思います。しかし、岩波文庫の場合は、まず第一に書籍の文化的価値を重視し、その本にとって、その作品にとってベストな形を模索しながら、編集しています。
 たとえば、7月には『星の王子さま』が岩波文庫に収録されますが、この『星の王子さま』は、1953年に岩波少年文庫の一冊として初めて日本に紹介された本です。
 翻訳は、フランス文学者の内藤濯先生です。当時、岩波少年文庫の編集顧問だった石井桃子さんは、最初は、マルタン・デュ・ガールの『チボー家の人々』を訳されたばかりの山内義雄先生に打診されたのですが、山内先生は『星の王子さま』の原書をお読みになって、「この本の雰囲気は私の世界ではない。この美しいリズムを日本語に活かせるのは、内藤濯さんしかいない」とおっしゃったそうです。それで、内藤さんに白刃の矢が立った。互いに相手の気持ちを尊重しあう、そういう時代でもありました。
 今でも、たとえば海外文学の企画立案にあたっては、この作家のテイストであれば訳者としてはA先生がふさわしいだろう、でもたとえその作家であっても、ことこの作品であればB先生にお願いしよう、というところまで詰めて議論しています。しかし、いま新訳をお願いするのにふさわしい方が見当たらない場合もあります。反対に、もうお亡くなりになった先生のお仕事であっても、それを超える翻訳はしばらくは出ないだろうと思われる仕事もあります。そういうときは、私たちは過去から現代まで出版された本をすべて読み込んだ上で、お亡くなりになった先生の既訳をあえて岩波文庫に収録することもあります。

 ————『星の王子さま』も検討を重ね、やはり内藤訳で、ということになったのですね。
 入谷 内藤先生の『星の王子さま』は、長く愛されてきた名訳ですし、岩波文庫に収録されるのは当然のように感じるかもしれませんが、私たちが内藤訳に決めたのは、しっかりと検討した上でのことです。

■谷川俊太郎作品や大江健三郎作品も

 ————岩波文庫の理念を感じるお話ですね。今、岩波文庫は月に何点、出版されているのですか。
 入谷 毎月4、5点出版しています。今、私たちが力を入れているのは、これから古典になる作品を見極めることです。将来を見据えながら広い視野を持ち、今後古典の位置を占めると思われる本をどんどん収録していきたいと思っています。
 その1冊が、2013年1月に出版した『自選 谷川俊太郎詩集』です。岩波文庫は基本的には評価の定まった本を収録する叢書ですので、どうしても亡くなった著者が多くなってしまうのですが、久しぶりにご存命の著者の本を出すことができました。もともと谷川さんは人気がありますが、たくさんの読者が読んでくださって、うれしかったですね。これ以降、大江健三郎さんや大岡信さんの自選集も出しましたし、現代文学の刊行も増えています。

 ————1冊を出版するまでには、どれくらいの時間がかかるのでしょう。
 入谷 作品やジャンルによって異なります。企画が持ち上がってから、3、4カ月で出版されるものもありますし、新訳の場合、3年くらいはかかります。日本の古典文学では、校正者の先生と注をどのレベルで付すか、底本に対してどのような処理を行うかなど、詳細に相談するので、出版まで10年かかるものも珍しくありません。

 ————それだけていねいに作っているからこそ、長く愛される文庫になるのですね。入谷編集長が編集を手がけられて、思い出に残っている本はありますか。
 入谷 『文語訳 新約聖書』の編集は骨がおれました。ひとくちに聖書と言っても、幕末から明治期に本格的な日本語訳が出はじめてから数えても、たくさんの版があり、それぞれ訳も表記も違います。「文語訳」であれば、1950年代に「口語訳」が出るまでのあいだで、どの版が一番よく読まれたのかを考えて、1917年の「大正改訳」版を底本とすることにしましたが、その他の諸本とも校合しました。変体仮名も使われているので解読には苦労しましたね。固有名詞のカタカナ表記にも揺れが散見されました。間違いがあってはいけませんから、校正も7人ほどの方に手伝っていただきました。

 ————今回、文庫創刊90年を記念して文学や学術、芸術など各界を代表する228人に「私の三冊」を選んでもらい、雑誌「図書」の臨時増刊号(2017年5月)で結果発表されていますね。
 入谷 皆さんには1冊につき90字ほどのコメントもいただいたのですが、「何をどう読むか」という問いに驚くほど多様で豊かな回答が寄せられました。この臨時増刊は読者の皆さんに好評だったのですが、私たちも、これほど多くの方たちに岩波文庫が愛されてきたのかと感動しましたし、とても励まされました。

 ————90周年記念のフェアやキャンペーンも企画されているそうですね。

■心の糧となり、生きる支えとなる本

 入谷 はい。特設コーナーを作っていただいた書店さんもありますし、読者プレゼントも用意しています。フェアの文庫を3冊以上、お求めいただき、帯についている応募券をハガキに貼って岩波書店に送っていただくと、応募者全員に「木のしおり」をプレゼントいたします。しおりに使っている木はクスノキで、防虫と消臭、リラックス効果があると言われているので、本にはぴったりなんです。さらに抽選で100名様に岩波文庫特製のショルダーバッグも当たりますので、ぜひたくさんの方にご応募していただければと思います。

 ————これから岩波文庫をどのように読んで欲しいと思っていらっしゃいますか。
 入谷 そうですね。本には2つの種類があると思います。一つは、読みやすく、分かりやすい等身大の本。もう一つは、読みこなすのに少し背伸びをする必要がある本。
 岩波文庫は、後者かもしれません。若い方には少し背伸びして読んで欲しいですし、年配の方には、若い頃に読む機会のなかった本を手に取っていただきたいです。「古典」というのは、いつ読んでも、何歳のときに読んでもいい本です。読む時期によって、読者にとっての意味合いが様々に変化する本、その時どきの「心の糧」となり、生きる支えとなる本こそが「古典」なのですから。
 ときには歯ごたえのある堅いものを食べたほうが体にいいように、本もちょっと背伸びして、「頑張って読んでみよう」と思うものこそが、往々にして、何度も何度もくり返して読んでいくうちに血肉となり、記憶に残るのではないでしょうか。そんなかけがえのない体験を皆さんにしていただければ、と思います。(文・写真 角田奈穂子)

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