眉村卓「ねらわれた学園」 正義は一つではない

2013年02月26日

眉村卓さん=堀内義晃撮影

 文明が行き詰まった未来の世界から現代に派遣された人物が、超能力で中学校の支配をもくろむ。生きる時代によって異なる「正義」のありようを描いた「ねらわれた学園」(1976年)は、81年の薬師丸ひろ子主演映画をはじめ、何度も映像化されてきた。ジュニア向けSFの金字塔として、今も愛されている。

 ありがたいことに、昨年もアニメ映画になりました。40歳そこそこで書いた「ねらわれた学園」が、どんな風に描かれるのか。80歳近くなった僕ですが、時代をどう映しているのか、興味を持ってみせてもらいました。
 執筆した70年代半ばは、高度成長時代の終末期でした。世相に闇が差してきて、ありそうでなさそうなもの、例えば「超能力」がもてはやされた頃でもありました。
 SFには「宇宙もの」「ロボットもの」など、いくつものジャンルがありますが、この作品は「時間旅行もの」と「超能力もの」が適していました。書いた当時はSFそのものがひとつのジャンルではすまなくなっていた。未来をバラ色一辺倒で描けなくなったように、社会の様相もややこしくなっていましたから。
     ◇
 もともと学習雑誌「中学二年コース」で74年度に連載をした作品。「ええやんか」と当時同じ年代だった一人娘も言い、あれこれ意見を述べてくれた。作品がおもしろくないと、身内でも本気で読んでくれないものです。
 編集者によると、連載中、読者の反応もよかったようです。未来人に操られ、中学を支配しようとした少女にも人気が集まり、「ひどい目にあわせないで」という話が寄せられた、と聞きました。これには驚きましたね、いつの時代にも強力なリーダーシップに憧れるタイプの人がいるんですね。
 ただ、時代を超えて映像化されてきたのは、指導者が道を誤り、人々を変な方向に導いてしまうのでは、という多くの人が抱く恐れを描けているからだと思います。と同時に、正義は決して一つではない、というメッセージも織り込んでいる。この作品では、現代人の正義と未来人の正義の、どちらにも必然性がありますから。
     ◇
 連載が終わる頃、映画化の話が寄せられ、実現しました。それまでずっとあがってきたのとは違う階段が、目の前に伸びてきた感じがしました。作家として幅が広がるんじゃないか、と思いました。
 僕は若い頃からSF作家には珍しく自分の経験を書く、と言われてきました。むしろ空想の中に自らの経験を投影することでしか書けない、と言っていい。「ねらわれた学園」の舞台も、自分の中学・高校のシステムを下敷きにしました。戦後の学制改革で揺れていた時代の波の影響もあるでしょう。
 昔から、SFやミステリーの世界では、作家に中途半端な人生経験や思い込みがない方がよく書ける、との説があります。例えば、SFではタイムマシンなどを実在の装置として登場させますし、ミステリーでは凄惨(せいさん)な殺しの場面を描かなければいけませんから。
 でも僕は、作品に自分の経験を投影したいタイプです。大阪市南部で少年時代を過ごし、下町の生活感覚が身に染みている。空想だけでは話に真実味が出てこない気がします。
 作家になり、半世紀がたちました。原稿用紙約6万枚書いてきましたが、そういう感覚は若い頃から変わりません。近年、ますます強くなってきているみたいです。これを「私(わたくし)ファンタジー」と自称しているのですがね。(聞き手・木元健二)
     ◇
 まゆむら・たく 1934年大阪生まれ。「なぞの転校生」などの作品で人気を博し、近著に「僕と妻の1778話」など。泉鏡花文学賞、星雲賞受賞。

関連記事

ページトップへ戻る