「チェス界のモーツァルト」伝記に 栄光と悲劇の軌跡

2013年03月11日

ボビー・フィッシャー=AP。1972年、ニューヨーク

ブレイディー氏は今も、フィッシャーが頭角を現したマーシャル・チェスクラブに所属する。壁には、盤に向かうフィッシャーの写真が残る=ニューヨーク、中井大助撮影

 米国出身のチェス元世界王者、ボビー・フィッシャーが64歳で亡くなって5年。絶対的な強さを誇りながら、忽然(こつぜん)と姿を消した人生は今も世界の関心を集める。その人物像に迫ろうと、少年時代から見続けてきたフランク・ブレイディー氏(78)が膨大な資料を使って伝記を書き上げ、新たな光をあてた。和訳『完全なるチェス 天才ボビー・フィッシャーの生涯』(文芸春秋)が出版されたのを機に、ブレイディー氏に話を聞いた。
 2人が初めて会ったのは約60年前、チェス大会の会場。以来、活躍を間近で見守った。1965年にはフィッシャーの初めての半生記を出版。72年に世界制覇し、30年続いたソ連の覇権に終止符を打つと全面改訂もした。一方、半生記出版のころから関係は微妙になり、やがて疎遠になった。他人を敵視することが多かったフィッシャーが頻繁に取った行動だ。
 「ボビーは人と一緒にいることを嫌い、結果的に孤独になった」。こう話すブレイディー氏だが、かつての友のことはずっと気になっていた。特に、2001年の9・11米同時多発テロの後にラジオで「素晴らしいことだ」と話して物議を醸したことは気がかりだった。08年の死去後、関係者を訪ねて取材を開始した。
 天才少年時代や、世界王者になるまでの足取り。防衛を拒み、姿を消した後の生活。1992年に一度だけ行われた「復活対局」。その対局が経済制裁の対象だったユーゴスラビアで行われたため、今度は米政府からも追われ、日本やフィリピンなどを転々とした暮らし。日本で身柄拘束された後、市民権を与えて受け入れてくれたアイスランドでの死去まで、孤高の天才の人生を丹念にたどった。
 「恵まれない家庭環境からチェスで上り詰めた栄光と、そこから落ちる悲劇。両面があまりにも極端で、劇的だ。多くの人を引きつける理由もそこにある」
 取材過程では、フィッシャーが母親と交わした手紙や、生い立ちについて書いた文章を入手。フィッシャーを調査した米連邦捜査局(FBI)や、ソ連のチェス支配への脅威と感じた旧ソ連国家保安委員会(KGB)の資料なども集め、知られざるエピソードを多く盛り込んだ。フィッシャーと並ぶ20世紀のチェスの名手、ロシアのガルリ・カスパロフ氏も「偉大な著作だ」と書評でたたえた。
 一方、チェス界や米国に背を向けた決定的な理由は結局、分からなかった。ただ、絶頂が高かっただけに反動も大きかったとブレイディー氏は考える。「ボビーは冷戦の真っ最中にソ連の王者を破り、神格化された。それを自分でも信じてしまったのかもしれない」
 解明できなかった部分もある。結婚した渡井美代子さんは取材に応じなかった。「日本に行ったのは、間違いなく彼女を慕ってだ。フィッシャーの人生で唯一、うまくいった恋愛関係だろう」という。
 「途中まですばらしい人生だと思っていたが、結果的には死に方を含めて不幸だった。とても残念だ」と語るブレイディー氏は同時に、「チェス盤上でみせた天才はまぎれもない」と強調する。特に忘れられないのは、大会を控えた17歳のフィッシャーが食事中、手元のチェス盤を使いながら戦略を解説した場面だ。
 既にロシア語のチェス本も研究し、無数の棋譜を記憶していたフィッシャーは信じがたいスピードで駒を動かしながら、相手の出方をどう封じるのか、次々と示した。「モーツァルトがすらすらと作曲している現場に立ち会っているかのようだった」。くしくも、和訳の解説で将棋の羽生善治三冠もモーツァルトになぞらえ、「誰もが認める天才だが、それとは別の部分に大きなギャップがある」と書いている。羽生三冠はかつてこうも断じた。「残した棋譜は、百年後も色あせることなく存在する」

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