家族愛したさみしがり屋 植田正治の生涯、娘語る

2013年05月08日

生誕100年記念イベントに合わせて鳥取を訪れた植田正治の長女、増谷和子さん=米子市内

 今年生誕100年を迎えた鳥取県境港市出身の写真家、植田正治(1913~2000)の長女、増谷和子さん(74)=東京都在住=が、「カコちゃんが語る植田正治の写真と生活」(平凡社、税抜き1800円)を出版した。テープにとりためた語りをまとめ、未公開写真も多数掲載。「いろんなことをおしゃべりしすぎちゃって、気恥ずかしい」という和子さんに、父との思い出を聞いた。
 ――戦争中の話が印象的でした。植田は2度の召集を受けながら、体が細かったこともあり、すぐに帰郷していますね
 記憶の限り、父は戦争中も家にいました。自警団に入っていたけど活躍もせず、戦争にはあまり協力的ではなかった。隣組の火消し訓練も「ばかばかしい」と言って参加しませんでしたが、いざ焼夷(しょうい)弾が飛んで来たら、父以外に誰も消火に出てこず、怒っていました。
 終戦の日は、母の実家があった疎開先の法勝寺(南部町)に近所の人ら10人くらいが集まって、ラジオで玉音放送を聞きました。放送が終わると、父は「あー終わった終わった。じゃあ帰ろう」と言って、家族全員連れて、その日のうちに境港の自宅に帰ってしまった。母は帰る支度に大変だったと思います。
 ――植田はどんな父親でしたか
 とにかくさみしがり屋。家族はいつも一緒にいなきゃと思っていたようで、出かけてもすぐに帰ってきちゃう。家族でいるのがよかったみたいです。私が東京に出てからも、仕事で上京して、1日でも予定が空くと、母のいる境港に帰ってしまう。家も母も、好きでした。
 私が幼い頃は、家に技師や写真仲間が集まり、年中にぎやかでした。父は弟子はとらず、「写真する人はみんな仲間」と言っていた。写真教室の講師をしたときは、1カ月前から始めたという人も、仲間だからと自宅に連れて来ていました。
 ――晩年の5年間は、境港の自宅で2人で暮らしたそうですね
 お互いにおしゃべり好きで、父はテレビを見るのも「一人じゃつまらないから」と言って、一緒に見ました。昔はいつも十何人といた家で、「こんなに寂しくなるとは思わなかったね」とよく話しました。
 手先が不自由になってからも、私が横でフィルム交換をしながら、友人たちを誘ってよく撮影に出かけていました。最後の頃は、「この年になっても好きなことをやっているのは、幸せ者だよな」と、つくづく言っていました。
 本気でけんかもしましたが、機嫌もすぐ直る。父親というより、お友達みたいな感じでした。

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