天皇制、タブーへの転機 「風流夢譚」事件の影響を検証

2013年05月15日

「ジャーナリズムにはまだ可能性があると思う」と話す根津朝彦

 天皇や皇族に関する表現をめぐって出版ジャーナリズムや論壇の存在意義が問われた「風流夢譚(むたん)」事件。当時の編集現場に着目した歴史研究書がこのほど刊行された。“天皇制タブー”を強める契機になったとされる事件に、新たな光が当てられた。
 歴史研究者である根津朝彦(35)=国立歴史民俗博物館機関研究員=の初の単著『戦後「中央公論」と「風流夢譚」事件』(日本経済評論社)だ。
 「風流夢譚」は天皇が殺害される話を含む小説で、1960年に月刊誌「中央公論」(中央公論社刊=当時)に掲載された。戦争責任にかかわる問題を想起させるくだりがある。同社は右翼の抗議行動に遭い、翌年には社長の家人らが殺傷される事件も起きた。
 根津は一連の経緯を調べ、当時の編集者ら23人からの聞き書きもした。
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 事件は安保闘争と同じ60年に起きた。当時、新聞と並んで論壇を主導したのは総合雑誌の「世界」と「中央公論」だった。根津によれば、天皇制批判の記事を載せた回数では、事件前は、世界より中央公論の方が多かった。「戦後の記事本数を数えたら『世界』のほぼ1.5倍でした。批判の中心的な要素は、昭和天皇の戦争責任でした」
 だが、右翼の攻撃などを受けた中央公論は掲載を謝罪し、人事異動によって編集部の陣容を一変させた。「編集長を辞めさせるなど、切り捨ての人事でした。言論機関としては総敗北と言える事態です」
 “降参”が早すぎたことも残念だった、と根津は言う。「読者の間には『言論の自由を守ろう』と応援する声もあったのに、声を結集させてオープンな場に表出させていくチャンスを自ら手放してしまった」
 その後の同誌からは少なくとも約10年間、天皇制批判が姿を消した、とも指摘した。
 「批判的に語ることをやめようと自主規制する中央公論を見て、周囲にも同じ姿勢が伝染する。そんな負の連鎖も生じたと思う」
 事件後の60年代。新しい編集部のもとで中央公論誌は、「進歩派」を批判する「現実主義」の論調を主導していった。「編集部内に戦中派を抱え、在野的なジャーナリズム精神で『現実批判』の一翼を担ってきた雑誌が、追認的な『現実主義』に転じる。その転回点に風流夢譚事件があった」と根津は見る。
 メディアの自主規制によって天皇制タブーが強化され、「表現の自由」を後退させるとともに、論壇から「現実批判」の勢力が減る引き金にもなった。根津は事件をそう総括する。
 80年代後半、昭和天皇の病状が悪化し、社会に「自粛ムード」が高まる中で「天皇の戦争責任はあると思う」と発言したのは長崎市長(当時)の本島等だった。右翼から抗議されたが撤回せず、右翼団体の男に銃撃された。天皇が死去した後のことだ。
 「戦争への反省がいまだに深まりにくいことと、天皇の戦争責任という核心の問題が議論されにくかったことには、関連があると思う」と根津は言う。
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 言論を扱う企業が「言論の自由」を空洞化させてしまう事態を防ぐために、事件からくみ取れる教訓は何か。「経営陣からの圧力に抗して部下を守るような、使命感と実力を兼ね備えた編集幹部を育てること。味方になってくれる読者を増やすこと。この2点に地道に取り組むことが、実効的な対策だと思います」
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 〈「風流夢譚」事件〉 深沢七郎の小説「風流夢譚」には、主人公が夢の中で不思議な「革命」に出会い、天皇や皇太子らが民衆によって殺害された場を目撃する場面がある。1960年11月に中央公論(12月号)に掲載されると、右翼の抗議行動が始まり、翌年2月には右翼少年が中央公論社(当時)の社長宅に侵入して家人らを殺傷するテロ事件(嶋中事件)が起きた。同社が「思想の科学」天皇制特集号の発売中止を決め、執筆者らから抗議があがる事態もあった。

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