教養は人生の保険だ 島田雅彦、作家デビュー30年

2013年08月21日

作家・島田雅彦

 テレビドラマの世界では上司を罵倒する夢のような銀行員が人気だが、活字の世界では、ホームレスとなった銀行員がリアルなサバイバル術を教えてくれる。島田雅彦『ニッチを探して』(新潮社)は、背任容疑をかけられた男の逃走劇。デビューから30年、52歳になった島田が描く「後半生を名誉のために生きる男の、たった一人の反乱」だ。
 「ニッチ」とは生息域や適所、居場所の意味。不平等と格差の社会で生き延びるために、島田が考えたのは「デモもいいが、個々人が粘り強く闘争と逃走を続け、ニッチを探すしかない」ということ。
 物語の主人公は大手銀行に勤める藤原道長、52歳。金融ブローカーへの不正融資を妨害し、東北の中小企業への融資や福祉団体の寄付にまわす。「経済格差の恩恵を被ってきた人が、誇りを持って晩年を迎えるための社会奉仕」。平安貴族の藤原道長も因果応報を恐れ、晩年は寄進などをしたらしい。
 ともかく、背任容疑がかけられた道長は、妻と娘を残して失踪する。炊き出しを経験し、上野公園へ行くが、プライドを捨てきれずホームレスの仲間になれない。放浪を続け、持ち金が底を突き、少年たちの襲撃にもあう。
 生存本能を取り戻す行程は厳しいが、道長はユーモアを忘れない。空腹時は好物を細かに想像。食べた気になることを「空食」と名付ける。千日回峰行の僧が、時に気を抜き苦の中に楽を見つける話を思い出す。千利休がこの素材を知ればと思いをはせると、段ボールハウスもひなびたわび住まいに。ついでに河川敷で野点(のだて)でも、という具合。
 試練に耐えるために大切なのは知識と教養だという。心の病や身内の介護者にリストラ、そんな可能性を誰もが抱える不安な時代。「頼りになるのは預貯金だけではない。教養も一種の保険と考えて。逆境の中でも、楽しみを見つけないと。ダジャレや自分を突き放して笑うことは、みんな日々やっていることでは」
 実際、野宿やエコ生活のガイドにもなる本書。島田自身があちこち歩き回り、ホームレスに交じって体験したことが反映されている。
 今の東京が克明に描かれてもいる。「移ろいの激しい都会のある時期を、言葉でしっかり転写しておきたかった」。20世紀初頭のダブリンのある一日を詳細に記したJ・ジョイス「ユリシーズ」が思い出される。道長の遍歴は、ジョイスもなぞった古代ギリシャの叙事詩「オデュッセイア」を下敷きにしている。
 大学在学中に「優しいサヨクのための嬉遊曲」でデビュー。芥川賞に6回落選したことは有名で、いまは選考委員だ。大岡昇平に作品を認められた時、「もう芥川賞はいらないと思った」。埴谷雄高とも親交があった。「あとは頼むといわれた気がします」
 自殺を決意した男の一週間を描く『自由死刑』、皇室を題材にした「無限カノン3部作」、敗戦後に戦う女のロマン『退廃姉妹』、歴史の転換点を軸に日本を見渡す『徒然王子』。つねに社会とリンクし、挑発し続けてきた。
 鎮魂を文学の重要な役割の一つと見る。道長の物語にも、隅田川と空襲、多摩川と洪水、中央線と自殺というふうに、死者の記憶が見え隠れする。
 「経済は生者のものだが、文学は死者も含めた世界観を提示する。書いている自分も死ぬが、作品に未来への祈りを託している。伝わると信じている」

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