詩人は社会とどう向き合うか 震災・原発事故

2013年09月11日

 2011年の東日本大震災は、詩人と社会との関わりをめぐって、現代詩の世界に熱い論争を起こした。震災や原発事故という大災厄に向き合い、発信するべきか。距離を置き、言葉が熟するのを待つべきか。それぞれの主張の中心を担った藤井貞和と荒川洋治に話を聞いた。
■藤井貞和(詩人) 記録して巨悪と対決
 2011年3月の東日本大震災から5日目にツイッターで発信した福島の和合亮一さんを、私は応援したいと思った。神話が語る、原初的な無秩序の世界からことばが生まれてきた瞬間のように、和合さんの体を通してことばが生まれてきた。11年6月の詩集『詩ノ黙礼』は時代を超えて残ると思った。福島の若松丈太郎さんの作品も、読者に伝わる詩の意志、思いがある。
 現代詩はいま全体的に低調で、荒川洋治さんも私も含めて行き詰まっている。その世界が動いていくことには意味がある。
 福島で書かれる詩が震災や原発を離れることは難しい。福島の詩人たちは書かれるべき内容を、表現の幅や広がりという面で作品が貧しくなることに耐えながら書いている。福島の外の人でも震災や原発を扱う際に同じ苦しさがある。俳人・長谷川櫂の『震災歌集』もそうだ。和合さんはそうした震災を扱う詩の代表格として「詩的産業の先兵」のように扱われ、揶揄(やゆ)された。
 今夏、私は『水素よ、炉心露出の詩 ~三月十一日のために』を出した。帯に「これは詩集ではない」と書いたが、詩集と受け取ってもらってかまわない。震災詩批判への私なりの回答のつもりだ。
 短歌や俳句は音数律という型がある。現代詩には型がない。決まった形がない中で、詩人たちは必死に形をつくって書いている。自分が過去の詩集でつくってきた「現代詩らしさ」を支える形を壊すのはつらいこと。一度、ぶっ壊してしまうと、3年くらい詩が書けなくなる。今回あえてそれをした。原発や震災にかかわる言葉を記録しておく必要があると思い、集めた。
 1991年の湾岸戦争のとき、私は「アメリカ政府は核兵器を使用する」という詩を書いた。「湾岸戦争が現実になってより/わたくしは自分の仕事らしい仕事をしていません」と始まる詩。荒川さんには「メッセージが服をつけずにはだかで出ている」「作品としての迫力は出ていない」と批判されたが、自分の形を壊す覚悟で書いた詩だった。
 今回の『水素よ……』は原発という巨悪に詩人として対決しようと思って書いた。原発のように巨大すぎる存在は、科学者ら専門家でも、その問題を描きつくすことができない。様々な分野の学者の言葉や被災地の人たちの言葉を集めて、原発が原理的に許されない存在だということを伝えたいと思った。言葉を扱う詩人だからこそ、できることがある。私はまだそう信じている。
■荒川洋治(現代詩作家) 多数派志向 言葉軽く
 東日本大震災後、震災を主題にした大量の詩や歌が書かれた。被災地からは福島の和合亮一さんや宮城の須藤洋平さんら。俳人では長谷川櫂さん。他にも震災に即応する詩を書いた詩人たちが少なくない。
 被災者への共感がないと誤解されかねないので、「震災詩」を批判するのは難しい。ただ、翼賛的な空気の中で詩人たちが戦争を肯定する詩を書いてしまった苦い歴史もあり、批評は大事。ぼくは、震災後の文学特需のような事態を「詩の被災」と書いた。作家・辺見庸さんの見事な詩集など一部を除くと、垂れ流された震災詩が「そうか詩ってこの程度のものだったのか」と、人々を失望させた恐れがあるからだ。
 震災や戦争といった社会的な出来事を詩で扱うと、「いつどこで誰が……」といった説明が必要になるため、意思や情報を伝達するために使う散文に近づいていく。散文の機能を生かしつつ、結晶度の高い詩をつくるには、ものすごく高度な技術が必要だ。
 ぼくは、日韓問題など社会的な問題を扱う詩を書いてきたが、その際に注意してきたことがある。世の中の一般的な論調には同化せず、詩を書く立場からしか見えないことや感じとれないことを書く。時事性が消えても鑑賞に堪える作品をめざす。となると、書き上げるのに数年以上かかる。
 戦後、田村隆一や鮎川信夫らが礎をつくった現代詩は、叙情など感じたことを書いた近代詩と違って、思考することを重視した。
 安保闘争が起き、人々が革命を志向した1960~70年代、現代詩は現実社会を否定し、未来の世界を描いた。「この世界と数行のことばとが天秤(てんびん)にかけられてゆらゆらする可能性」と、詩人・谷川雁が書いたように詩の言葉は力があった。
 80年代以降、現実社会を否定するよりも、目の前の快楽が重視されるようになり、詩も社会性を失っていった。詩人は、個人の領域にとどまり、詩壇の中の評価を意識した。そんな中、大震災が起きた。でも、慌てて社会的なものを書こうとしても、無理がある。
 和合さんら震災詩の書き手は無意識に「多数派」を志向していなかったか。詩の言葉は少数の人に深く鋭く入っていくことに意味がある。詩人がみな多数派を志向したら、表面的な心地よい言葉が愛され、深く考えて発せられた言葉が軽んじられる危険がある。ぼくは自分の詩は50人くらいに読まれれば十分と思っている。読む人が多すぎると表現の穴を見つけられるという恐怖感もあるのだけど。
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 ふじい・さだかず 詩人。11年9月、原発事故などを主題にした短歌集『東歌篇(あずまうたへん)――異なる声』を冊子の形で出版。同年10月の詩集『春楡(はるにれ)の木』で鮎川信夫賞。『源氏物語論』を著すなど古典にも詳しい。71歳。
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 あらかわ・ようじ 詩人の肩書を嫌い現代詩作家と名乗る。浜田幸一と岡本太郎が対談したテレビ番組を辛口に描いた詩などの『空中の茱萸(ぐみ)』で読売文学賞。教科書問題を扱った詩も。評論で小林秀雄賞。64歳。

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