私らしく生きる選択 中原清一郎「カノン」

2014年03月18日

作家の中原清一郎(外岡秀俊)

 小説『カノン』(河出書房新社)で描かれる10年後の東京では、脳の中で記憶をつかさどる海馬の交換手術が行われる。心と体、男と女、家族とは……「私らしく生きる」ことを問い掛ける。
 海馬を交換するのは、末期がんを患う58歳の北斗と、記憶が退化する「ジンガメル症候群」を患う32歳の歌音(かのん)。他人になって生きることを選んだ北斗は、心は男性のまま歌音の体に入り、4歳の男児の母親になり、仕事に復帰する。性が変わったことへの戸惑い、親子間のトラブルなどの葛藤を越えて、新しい自分を受け入れるまでを描く。
 作者の中原清一郎は1953年生まれ、朝日新聞東京本社編集局長をつとめた外岡秀俊の別名だ。外岡は76年、東大在学中に『北帰行』で文芸賞を受け、その後朝日新聞に入社。中原名で86年に『未(いま)だ王化に染(したが)はず』を出版したが当時は明かさなかった。
 認知症が進んだ父親の介護のために3年前に退社。故郷の札幌で両親と過ごしながら、「意識がしっかりして体が不自由なのと、頭はもうろうとしながら体が自由なのと、どちらが幸せか」と考えた。それが3作目の小説の発端になった。
 テーマは「記者時代から注目していたがんと性同一性障害」。書くのがもっとも難しかったのは、ファッションや化粧など女性らしさの象徴だったという。「妻や娘にきくのは恥ずかしいので、ファッション雑誌を買って勉強した」
 歌音はなぜ、死期が近い北斗の体に入ったのか。その理由を、歌音は手術に反対する夫に語る。「大きな災害で3歳の娘を波にさらわれた母親が、娘は3年しか生きなかったけれど一生分の幸せを残してくれたと言った。でも私は、どんな記憶を子供に残せるの?」
 「存在しなくなっても残るもの」は、フリーのジャーナリストとして被災地に通った体験が影響する。「亡くなった人への思いの深さに圧倒された。大切に思う人の近くに、亡くなった人がいると感じた」
 北斗と歌音は周囲に温かく見守られ、絶対的な悪人は出てこない。「自分が完全ではないと分かっているから、突き放せない。作品を生み出す立場としては甘いですね」
 新聞記事には事実しか書けない。「小説であれば真相に迫れるのに」と思ったことが何度かあったという。「想像力の使い方が正反対」というフィクションとノンフィクションの両方で、今後も社会を見続ける。(宇佐美貴子)

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