いま「宰相A」と対峙する 田中慎弥さんの新作、舞台は「もう一つの日本」

2015年03月24日

田中慎弥さん

 安倍晋三首相の選挙区、山口県下関市に住む作家の田中慎弥さんが、新作『宰相A』(新潮社)を出した。別の戦後を歩んだもう一つの日本を舞台にした小説で、米国の言いなりに「平和的民主主義的戦争」を進める首相の名はA。「アドルフ・ヒトラーのAでもあるけど、やはり安倍さんのAでしょうね」と、田中さんは言う。

 主人公の小説家Tは、母の墓参りに行こうと列車に乗り、もう一つの日本に迷い込む。そこはアングロサクソン系日本人が支配しており、もともとの日本人は「旧日本人」として居住区に押し込められている。Tはそこで救世主に祭り上げられ、やがて政府による居住区の掃討作戦が始まる。

 描こうとしたのは、ジョージ・オーウェルの『一九八四年』やアンソニー・バージェスの『時計じかけのオレンジ』のような別世界だ。「家族や父親と息子の話ばっかり書いてきたので、まったく違うところを書いてみようと」

 政治をからめたのは自分から一番遠い世界だから。「遠いところが一番よく見えるじゃないですか」。権利を奪われながら組織的抵抗もせず、日本人の着る緑色の制服に屈折した憧れを持つ旧日本人たち。その姿は、事実上、外交でも防衛でも独自の判断ができないこととは向き合わない一方で、隣の人とのわずかな差異には神経質で同調圧力の強い今の日本社会への皮肉にも受け取れる。

 旧日本人ながら米国の傀儡(かいらい)として首相の座にあるAは、Tからは遠い存在だ。演説は雄弁だが伝わるものがない。タイトルになっているのに出番は少なく、登場はテレビモニターやスクリーン越しばかり。「そうした中ぶらりんの状態が日本の首相だ」と思ったからだ。自由な芸術表現が許されないところなど小説世界はナチスを想像させるが、A自身は安倍首相に近いように思える。

 「私からは安倍晋三という人がこう見えてますよ、と。あの人は分かんないんですよね。すごく悪い人ではないような気がする。決して強くないのに、自分にむち打って、そうせざるをえないような」

 田中さんが暮らす下関市は安倍首相の地元だ。「一度対峙(たいじ)しておかないと、とは思ってました」

 安倍首相にも献本したという。(星賀亨弘)

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