日本人初? 「コボ」「キンドル」でデビューした新人作家が1位を獲得するまで

2012年08月28日

「ジーン・マッパー(Gene Mapper)」の書影。

「koboイーブックストア」の「ジーン・マッパー」購入ページ。同書は複数ジャンルで上位ランク入りしている

著者が立ち上げた「Gene Mapper(ジーン・マッパー)」専用サイト。電子書籍はここから直接購入もできる。コボ、キンドルの両ストアへのリンクもある。

「ジーン・マッパー」著者の藤井太洋氏。

 7月19日にサービスを開始したネット通販大手・楽天の電子書籍サービス「コボ」の書店で、これまで見たことがない著者の書籍が、複数ジャンルのランキング上位に入っているのを見つけた。作品の名前は「Gene Mapper(ジーン・マッパー)」、著者は「藤井太洋」。出版社名に「Taiyo Lab」とあることから、自己出版(出版社や編集者を介在させずに電子書籍を書き、売ることをいう)ではないかと推察できた。
 8月22日時点で、同作は「SF」ジャンルの16位、「ハイテク」ジャンルと「科学技術」ジャンルでは1位にランクインしている(ただしその後、著者が改訂版をアップロードしたところ、ランキングがリセットされ、現在の順位は変わってしまっている)。
 コボの「SF」ジャンルは、早川書房が最近刊行を始めた「ハヤカワSF・ミステリebookセレクション」を除くと、他のストアでも見かける既刊本やパブリックドメイン(法で決められた保護期間が終わることなどで、社会の共有物になった著作物のこと)が中心で、SFのファンであれば、どこかで必ず目にしたことのあるようなメジャーな作品が並んでいる。自己出版で、新作、しかも新人と思われる作品が、上位にランクインしているというのは非常に目を引いた。いったい、どんな内容なのだろうか? さっそく購入して読んでみた。
 
■ハリウッド映画さながらのサスペンス
 遺伝子操作によって農作物をゼロから作り出したり、拡張現実(AR)を使ってコミュニケーションしたりすることが普通になった2037年。遺伝子を設計する「デザイナー」である主人公・林田のもとへ、農作物「開発」メーカーの社員・黒川から調査依頼が舞い込む。カンボジアに納品したイネに異常が生じたというのだ。林田は謎の男「キタムラ」とともに、原因を探るため、旧ネットワーク(作品世界では現在われわれが使っているインターネットは2014年に「封鎖」され、新しいネットワークに置き換えられたことになっている)が保存されたベトナムのホーチミン市へと飛ぶ。異変の陰にうごめく謎の組織とは? そして黒川の秘められた過去、キタムラの正体とは——。
 以上が「ジーン・マッパー」のあらすじだ。SF的ガジェットやアイデアが次から次へと惜しげもなく投入される描写、どんでん返しが連続するサスペンスフルな展開は、フィリップ・K・ディックやJ・G・バラードを彷彿とさせ、海外SFと言われても違和感がない。個人的には、このままハリウッド映画にできそうな内容に感じた。
 特に印象的だったのが、スピード感あふれる文体だ。凝った表現やギミックが、短いスパンでたたみかけられるので、ついつい読み続けてしまうのだ。
 いったい著者はどんな人物なのだろう、と思って検索してみると、著者自身が運営する作品の紹介サイトがヒットした。やはり本作が初めて執筆した小説で、なんとコボ以外に、米アマゾンの電子書籍サービス「キンドルストア」でも刊行しており、自分のサイト上で、直接販売もしているというのだ。
 いま世界では自己出版が急拡大しているが、日本人では米キンドルストアでコミックを販売した「うめ」氏など、ごく少数の例があるにすぎない。
 米キンドルには「Kindle Direct Publishing(KDP)」、コボには「Kobo Writing Life」という自己出版のシステムがあるが、どちらも日本向けにはまだサービスを開始していない。
 そんな状況にもかかわらず、「キンドル」「コボ」の両方でデビューを果たした著者は何者なのだろうか? ますます興味がわいた。
 著者サイトの自己紹介ページには、ベレー帽をかぶった著者近影とともに、著者の開設したFacebookページやTwitterアカウントへのリンクが貼られている。Facebook経由でメッセージを送ると、すぐに返事が来て、都内でお会いできることになった。著者近影からはちょっと近づきがたい印象も受けたが、自分で本を執筆し、制作し、サイトを立ち上げ、海外のサービスを使って自作の直接販売もこなした作家とは、どんなパーソナリティの持ち主なのだろうか。好奇心を胸に、待ち合わせ場所に向かった。
 
■著者は?
 実際に会ってみた藤井太洋氏は、気さくなクリエイターという感じで話しやすかった。ただ、ウェブや電子書籍の専門用語がぽんぽん飛び出し、多少の知識を持っている筆者でも、一度聞いただけでは理解できないことがあった。
 1971年生まれで、現在41歳。舞台美術やDTP制作などの業務を経て、現在の本業は3Dコンピューターグラフィックスソフトの開発指揮で、これまでガイドブックや講演資料などを執筆した経験はあるものの、フィクションを書いたのも、これだけ長い(約10万字)分量を書き上げたのも初めてだという。
「きっかけは昨年の東日本大震災でした。大震災自体も、もちろんショッキングではありましたが、福島原発事故と、その後の専門家の混乱で、これまで社会が科学に対して持っていた信頼が完全に失墜したことが、私にとってはさらに衝撃的な出来事でした」
 すべてのものと同様、科学にも良い面、悪い面がある。だが一方で科学技術のもたらした恩恵により、昔より今の生活は確実に改善しているはずで、さまざまな面で豊かに、楽に暮らせるようになっている。その点についての見方まで揺らいでいることが、藤井氏には非常に気になったのだという。
「科学や技術はたくさんの問題を引き起こしてきましたが、それでも人間にはそうした困難を乗り越える力があるはず。これまでもそうしてきたし、これからもきっとそうできると思うんです。決して諦めてはいけない、そういう明るい前向きなメッセージを、何とかして世の中に訴えたい」
 そう考えたときに思いついたのが、電子書籍による出版。海外ではすでに、既存の出版と肩を並べるまでに成長した「(電子)自己出版」という選択肢だ。
 前職が印刷関連会社ということもあり、紙の本の制作過程については熟知していた。また現職ではサイト運営とそれに関連する技術開発を任されており、ウェブの延長線上にある電子書籍の技術についても、十分理解できた。残ったのは、執筆の方法。
「せっかく電子書籍オリジナルの本を出すのですから、出版までのプロセスも、なるべくデジタルで完結させようと考えました」
 そのために選択したのが「アイフォーンとアイパッドによる執筆・校正」だ。
「昼間は本業がありますから、執筆は通勤電車の中。アイフォーンのアプリで、こつこつと入力していきました。(スマートフォン独特の高速な入力手段である)フリック入力をマスターしていれば、画面を見続けていなくても書けるので、場所の制約があるパソコン等で書くよりもむしろ楽でした」
 面白いのが紙の本でいう「ゲラ」や「校正」も電子的に済ませる点だ。コボやキンドルへの入稿に使われる(キンドルの場合は変換が必要)、国際的な共通電子書籍フォーマットである「EPUB」を使った「組版(ページをレイアウトすること)」も自分でするため、その場で仕上がりを確認し、直しも入れられる。
 「電子書籍ならでは」を意識したのはそれだけではない。文体にも工夫を凝らした。
 「アイフォーンにしてもコボタッチにしても、電子デバイスでの読書体験は、紙の本とはかなり異なるところがある。ページ送りの速度は、やはり紙の方が上です。そのため書き手も、読み手に作品世界に没入してもらうためには、電子デバイスの特性に合わせた書き方をするべきだと考えました」
 工夫の一つは、リズム。端末の1画面内に収まる分量に「ページをめくらせる要素」を入れ込む。具体的には、「次に何がおこるんだろう」と思わせる内容や描写を、短い単位で書き込んでいく。
 次に、視点。読み手を夢中にさせるには、主人公の存在感はむしろじゃまになると考え、主人公についてのディテールの描写は、なるべく排除した。
「ゲームの世界に、『1人称視点(ファーストパーソン)シューティングゲーム(FPS)』というジャンルがあります。画面の中に主人公は登場せず、プレイヤーがその世界に入り込める仕組みの射撃ゲームです。目指したのはFPSのような小説です」
 藤井氏が「ハイスピードノベル」と名付けたこのスタイルは、実際にデバイスで読んでみると、確かに読みやすい。「サイバーパンク」と呼ばれるジャンルの小説に近いものも感じるが、それとも異なる、新しい「何か」を感じさせる。
 書き上げた作品を先述のKDPとKobo Writing Lifeにアップロードしたのが7月26日のこと。アマゾンやコボによる審査を経て書店に公開されるシステムだが、アップロードから公開までにかかった時間は、アマゾンの場合は数日、コボの場合は数時間だったという。
 8月28日時点での売り上げは、合計166冊。サイトからの直接販売が92冊、コボのストアでの販売が61冊、アマゾン・キンドルストアでの売り上げが13冊という内訳になっている。
 なお表紙のCGグラフィックも、自分で制作したものだ。
 
■「自己出版元年」が到来した英米
 日本では「電子書籍元年」というかけ声が何度となく聞かれた一方、インプレスR&Dの調べでは、2011年度の電子書籍市場が、2010年度比で縮小してしまったなど、言葉に実態が伴わないまま年月が経過した印象がある。
 一方、英米では2010年以降、電子書籍市場が急拡大し、2011年には、出版社や編集者を介さずに、著者が直接電子書籍を出版する「自己出版」の流れが加速し、出版界はすでに「次のステージ」に入った感がある。
 そのことを象徴するようなニュースが、昨年以降メディアで継続的に報じられている。
 2011年3月、米国の26歳の自己出版作家、アマンダ・ホッキングが大手出版社セント・マーチンズプレスと新作の出版契約を結んだと報じられる。これにより、セント・マーチンズプレスは彼女の4冊の小説の出版権を200万ドルで取得した。ホッキングは2010年4月、多数の出版社から門前払いされたティーンズ向け小説をアマゾンやバーンズアンドノーブル向けの電子書籍として売り出したところ、たちまち人気作となり、一時は一日9000冊もの売り上げを記録した。著作の総部数は、12年1月までに150万部を超えたという。
 11年5月には英国のE・L・ジェイムズがデビュー作であるSM小説「フィフティー・シェイズ・オブ・グレイ」をオーストラリアの小規模なオンライン出版社から電子書籍とPOD(プリント・オン・デマンド。注文に応じて印刷・製本する書籍)として発売、同作と続編二巻は、ほとんど宣伝しなかったにも関わらず口コミで人気を得る。
 11年6月には、英国の自己出版作家ジョン・ロックが、ミステリー・スリラー「ドノバン・クリード」シリーズで自己出版作家として初めて「キンドル・ミリオン・クラブ」(100万部以上を売り上げた著者のリスト)入りした。
 12年3月、ジェイムズは大手出版社ビンテージブックスと契約、ビンテージは「フィフティー……」の電子書籍版を再発売する一方で、4月、ペーパーバックとしても発売。映画化も決定。
 12年5月には「フィフティ……」の売り上げが米国での発売開始6週間で1000万部を突破した、とビンテージブックが発表し、8月1日には、英アマゾンが、同サイトでの「フィフティー……」の売り上げが一巻単体で「ハリ・ポッター」全巻の売り上げを上回った、と公表した。
 2012年8月には、ニューヨークタイムズ・ベストセラーリストに5人の自己出版作家による7つの作品が掲載された、と自己出版支援サービス大手のスマッシュワーズが発表した。
 このほか、1万〜十数万部単位の売り上げを上げる自己出版作家が続々とデビューし、「イーブックスーパースター」(英ガーディアン)、「イーオーサーズ」(米ニューヨーク・タイムズ)などと、彼らを取り上げた報道が頻繁にされているのが英米のメディアの現状で、さながら「(電子)自己出版元年」という趣を呈しているのだ。
 彼らのほとんどが、キンドルのKDP、コボの「Writing Life」といった大手プラットフォームの自己出版サービスか、前出のスマッシュワーズやLulu、CreateSpace(アマゾンが05年に買収)といった自己出版支援・流通サービスを利用して、自作を出版している。

■「中抜き」の時代?
 電子書籍の普及で何が起きるか。この数年、日本でも世界でもさまざまな「仮説」が唱えられた。その一つが、「中抜き」仮説だ。
 物理的な実体を持たない電子書籍では、従来の出版を支えてきた多くのプレイヤーが「用済み」になる。出版社、印刷会社、取次会社、書店などを経ずに、著者と読者が直接つながるようになる、というのが「『中抜き』仮説」の説くところだ。
 これから日本でも藤井氏のようなケースが急増し、「中抜き」の「自己出版」の時代が早期に到来するのだろうか。藤井氏自身の「手応え」を聞いてみた。
 「やはり言葉の壁が大きい、とは感じています。海外での成功例は、すべて巨大な英語圏を対象とした作品。セルフパブリッシングが成り立つかどうかは、市場のサイズにもよると思うので、日本語圏だけを相手にしているのでは、すぐに拡大するのは難しいかもしれません」
 日本語で書いた小説が、アップロードすると自動的に英語や他の言語に翻訳されるといった、多言語展開を自動化する仕組みのようなものが開発されないと、日本語で書く自己出版作家が、英米圏のような大きな成功を収めるのは困難、というわけだ。
 また「中抜き」という見方にも、藤井氏はある意味で懐疑的だ。
 「制作プロセスを全てデジタルにすると、むしろ編集や校正は大変になる。『ジーン・マッパー』の場合も、出版後にさまざまなプロの方から細かなミスや矛盾を指摘していただき、ファイルを修正しました」
 従来の制作工程では、紙のプリントアウト(「ゲラ」)を編集者や校正者がチェックする。広い範囲を俯瞰できるので、例えば物語の冒頭で提示した説明と後半の記述が矛盾していた場合なども、見つけやすい。ページめくりが紙ほどすばやく容易にできない電子書籍には、これが難しい。
 他方、「電子書籍」「自己出版」ならではの試みも手がけている。
 「毎日の売り上げがリアルタイムにわかるので、機動的にセールをしたり、話題のニュースに合わせてキーワード(リスティング)広告を出したり、従来の著者ができなかったプロモーションができます。また読者から直接コメントが寄せられるので、次回作を書く上での参考にもなります」
 実は次回作もほぼできあがっており、現在推敲の最中(アイフォーン上で)だという。
 伝統的な出版社は、いいコンテンツを作るところまでを自分の役割と考え、「売る」ための取り組みは、書店の店頭で本を並べたり、ポップを作ったりといったアナログ的なものがメインだった。
 ところが電子書籍では、猫の目のように変わるネット利用者の話題や関心に応じて、リアルタイムに施策を打ち出さないと、モノは売れない。藤井氏の書籍が大手出版社に伍してランキング上位に食い込めたのは、既存出版社が「ネットでのモノの売り方」に慣れていないためではないか、と藤井氏は言う。

■「自己出版元年」が日本にも?
 藤井氏のトライアルは、自己出版の可能性を垣間見せてくれるが、実際に日本でこの市場が急速に立ち上がるかどうかは、まだ未知数だ。
 先述のようにコボの自己出版プラットフォーム「Writing Life」は日本では正式にオープンしておらず、近日中に日本向けサービスを開始すると予告しているアマゾンも、KDPについては未だに何もアナウンスしていない。
 しかし、日本ではすでに複数の電子自己出版サービスが立ち上がっており、大手の一つである「パブー」は8月9日、「パブー」以外へも執筆した電子書籍を配信できる「外部ストア連携機能」を発表した。最初のターゲットはコボの書店「koboイーブックストア」だが、今後対応書店を増やしていく予定だという。
 新人作家が電子書籍のみで刊行した本がベストセラーになり、紙の書籍としても刊行され、映画化もされる——日本にもこんな「自己出版元年」が到来するのか、注目したい。

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