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安岡章太郎さんを悼む 差別目撃、作風に変化 菅野昭正

[掲載]2013年02月08日

安岡章太郎=1991年撮影 拡大画像を見る
安岡章太郎=1991年撮影

表紙画像 著者:安岡章太郎  出版社:講談社 価格:¥ 1,944

 安岡章太郎さんの生涯にはいくつか転機があった。たとえば、カトリックの洗礼を受けられたのがその一例である。晩年はそれで精神の安定を得られたのだろうか。
 いま私がふりかえってみたいのは、ある時期から、作家としての姿勢に新しい方向がくわえられたことである。それは洗礼よりもかなり前にさかのぼる。社会をひろく見渡そうとする視野が、安岡さんのなかに開かれたように私には思えた。いつ、どうして、そういう転機を迎えられたのか。いささか不躾(ぶしつけ)だったこちらの質問にたいする、安岡さんの答えは率直で明快だった。
 「アメリカに滞在して、当時はまだ厳しかった人種差別の実態を見たことが、大きかったね」
 被差別部落の問題をめぐって発言されたこともあったが、その筋道もそれでよく理解することができた。といっても、初期の「悪い仲間」、「海辺(かいへん)の光景」など、日常的な身辺をめぐる着実な観察にもとづくリアリズムの基本が、そこで変質したわけではない。社会的な視野が、その上に立体的にひろがったのだ。そして堅実さとユーモアとが溶けあった作風には、ひときわ余裕が感じられるようになった。
 そうした変容をなにがしか後押ししたのは、アメリカの黒人作家アレックス・ヘイリーの『ルーツ』(一九七六)である。アフリカ出自の家系を七代たどり直したあの小説が、『流離譚』(一九八一)の構想を刺激することになった。天誅組に参加し、あるいは戊辰戦争の犠牲となった先祖たちの運命を克明に描きだしたこの長篇(ちょうへん)は、単なる家系小説にとどまっていない。史料や伝承をよく調べあげ、それを十分に咀嚼(そしゃく)しながら歴史の動きを想像する書きかたが、最後まで揺らいでいない。戦後の歴史小説のなかで屈指の作品にあげられる『流離譚』は、こうして生まれたのだった。
 安岡さんと親しく接するようになったのは、ある文学賞の選考で同席する機会ができてからである。それより前なにかの会合ではじめて対面したとき、安岡さんは難しい質問をつぎつぎ浴びせる強面(こわもて)の年長作家だった。ところが、賞の選考仲間になってからは対等に接し、打ちとけて話しあえる寛容な先輩に変身された。しごきにも似た初対面の応待(おうたい)は、儀式のようなものだったのだと納得された。晩年、体調を崩されてからお会いする機会に恵まれなかったけれど、率直、寛容、そしてユーモアをまじえた楽しい閑談を、折にふれて私は思いだしていた。
 いまあらためてそんな瞬間を呼びもどしながら、ご冥福を心からお祈りしたい。

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