<文芸時評>転生 恋、自信、老いを契機に 片山杜秀さん寄稿

2014年11月26日

 当年とって22歳。高尾長良の「影媛(かげひめ)」はまるで「ロミオとジュリエット」。「日本書紀」の少しのくだりをここまで膨らませるとは!
 ジュリエットは影媛。大和朝廷に従う豪族、物部(もののべ)氏の娘。巫女(みこ)だ。琴を奏で、神の声を聞く。国や家の行方を占う。そんな彼女がロミオと出会う。物部氏とは犬猿の仲。平群(へぐり)氏の跡取り息子。志毘(しび)という。
 彼はまことに破天荒。鹿を狩りたがる。自ら皮を剥(は)ぐ。血なまぐさい。といっても単に残虐なのではない。鹿に憧れている。鹿を殺せば、その魂はおのれと一体化する。そう信じている。殺した鹿の皮をかぶり、鹿を真似(まね)て歌い踊る。歌声は「聞き取れ無い程の高い響き」を含んでいる。巫女の耳には神の声。巫女は神にこそ惹(ひ)かれる。影媛は志毘に恋する。
 ところで、志毘が鹿への変身を夢見るのは、鹿のように山野を駆け回りたいから。国や家から解放されたい。自由への願望が強い。大王(天皇)を尊ぶ念もない。腐肉の悪臭を嗅いでは「大王が屍(しかばね)も、かく臭わん」と言い放つ。
 こんな志毘が豪族として生き残れるはずもない。彼は影媛に恋慕する皇太子らと争う。「撃ちてしやまむ」という、太平洋戦争中の戦意高揚標語にも採用された古代歌謡の文句を歌う猪(いのしし)のような一族久米部(くめべ)氏。彼らにさしもの志毘も倒される。自由人は圧殺される。
 そのとき影媛が絶唱する。「あをによし 乃楽(なら)の谷(はさま)に 鹿(しし)じもの 水漬(みづ)く辺(へ)隠(ごも)り 水灌(みなそそ)く 志毘の若子(わくご)を 漁(あさ)り出(づ)な猪(い)の子」。
 影媛の作と伝えられる「日本書紀」の歌謡の中でもとびきりの哀歌。それがついに詠まれる瞬間が、この小説の頂点だ。鹿のように射殺されて水浸しの志毘の遺骸を猪は荒らすな。そんな意味だろう。
 ここまで来れば、この小説がなぜ志毘を鹿と結びつけたかも明らか。すべては影媛の歌の文句に収斂(しゅうれん)するように仕組まれていたのだ。こういう小説はたとえば戸板康二が得意だった。高尾の設計もさすが。とにかく終幕で影媛は、国や家のために神の言葉を預かる巫女から、自らの心情を切々と歌う独立した個人へ転生する。詩人の誕生を鮮烈に描き上げた傑作だ。
    ◇
 田中康夫が1980年に発表した『なんとなく、クリスタル』は不気味な小説である。高度消費社会。若者の享楽的生活。その先鋭な素描。豊かだけれど空虚。空虚は透明。透明はクリスタル。でも題名には「なんとなく」と付く。自信たっぷりにクリスタルではない。空虚で透明で何が悪いと開き直ってはいない。クリスタルには不安の陰りが入っている。言わば夕陽の透明さ。繁栄の先の没落への予感が低音部に鳴り響いている。
 その端的な証拠は作品の末尾に引かれた21世紀の日本の人口予測データ。国民の数が減って国力の衰える可能性がほのめかされている。『なんとなく、クリスタル』は次段階に「なんてったって、たそがれ」を内包していた。
 すると『33年後のなんとなく、クリスタル』は、33年前のたそがれの予感を拡大再生産する小説なのか。そうではない。たとえば、33年前の小説の主人公で、今回もきちんと登場する由利のセリフ。
 「黄昏時(たそがれどき)って案外、好きよ。だって、夕焼けの名残りの赤みって、どことなく夜明けの感じと似ているでしょ。」
 西と東を間違えれば夕焼けは朝焼けに見える。日没前は誰そ彼。日出前は彼は誰。田中はたそがれが真っ暗になる前にかわたれに変ずることを期待する。それはもちろん単なる空想ではない。人口が減少し、経済の規模が保てずとも、それなりに豊かに幸せに暮らす道はある。政治家を経験した田中の成熟した物言いと思想的自信のせいで、この小説は33年前の作品よりも明るい。
 そこでのキイワードは、田中が経済学者の宇沢弘文に学んだ、富国裕民や公益資本主義。それからイタリア的なもの。経済は順調でないのになぜか楽しそうに見えるかの国の不思議。それらをうまく混ぜれば、たそがれ時はかわたれ時に転生するだろう。
    ◇
 瀬戸内寂聴の『死に支度』は痛快きわまりない。90代の作家が死に支度をしようとする。いわゆる「断捨離」をして身辺を整理したい。けれど、ちっとも進まない。そのうち気づく。そういえば自分は出家をして生前葬もした。二度死んだとも言える。既にもう幽霊なのだ。幽霊がいまさら片づけるか。死に支度をするか。だいたい死に支度をしようと考えることが支度をしているあいだは生きようとしているのだから生にとらわれている。かくて作家は宣言する。
 「私は呆けても平気よ」。「部屋のちらかりだってどうだっていい」。「私は死人なんだから、人の批評なんて気にしないでいい」。「今こそ私は本当に自由になった」。
 生者から死者へ。生きながらの転生。滋味に富んだユーモア小説の極北である。
 劇的な体験、人生の年輪、そして老い。何がきっかけであれ、生まれ変わることはよいことだ。その回数が多ければ多いほど人生は豊かだ。

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