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村上春樹版「ロング・グッドバイ」 清水訳から半世紀

2007年03月14日

 作家の村上春樹さんがレイモンド・チャンドラーの代表作『ロング・グッドバイ』(早川書房)を新訳した。多くの読者に読み継がれてきた清水俊二さんの名翻訳『長いお別れ』(ハヤカワ・ミステリ文庫)から半世紀、男の美学をはやらせたハードボイルド小説は、新たな都市文学としてよみがえった。

 村上訳と清水訳を原典と対照して読み比べた文芸評論家の池上冬樹さんは、清水訳は声に出して読みたい明快なハードボイルド、村上訳はじっくり味わう都市文学、と分類する。

 「清水訳は映画の字幕経験者ならではの“はしょり癖”があって、三つの形容詞を一つしか訳していなかったり、数行とばしたりするが、とにかく語感がいい。村上訳は一語一語のニュアンスまで丁寧に訳し、主人公のフィリップ・マーロウが、ハンフリー・ボガート的なハードボイルド探偵から、都市文学に出てくる冷静な観察者になった。かなり文学寄りの翻訳という印象を受けた」

 半世紀を経て、翻訳は格段に精密になった。例えば「queen」という単語を清水訳では「女王」と訳していたが、村上訳では「おかま(クイーン)」としている。「村上訳では背景にある風俗の理解が進んでいる」(池上さん)という。

 ただ「決めぜりふ」は、意訳しているだけに清水訳の方がいい場合もある。例えば「飲むのなら自尊心を忘れないようにして飲みたまえ」(清水訳)という部分は、「もしプライドがあるなら、こいつに向かって見せてやるんだな」(村上訳)となっている。

 村上版の初刷りは10万部で、発売と同時に5万部の増刷が決まった。「卑しき街を行く誇り高き騎士」などという生き方の美学が信じられなくなり、「おやじのハーレクイン・ロマンス」とも評されるほど長期低落傾向にあるハードボイルドの世界では異例の売れ行きになっている。

 早川書房ではチャンドラー文庫5作品の重版部数が80年代には150万部あったのが、90年代には100万部、ここ6年では約20万部と低迷していた。村上版の刊行を追い風にしようと全国1500の書店で「チャンドラー・フェア」も開く。

 東京創元社でも翻訳家の田口俊樹さんによる『大いなる眠り』の新訳を今年秋ごろに刊行するなど、波に乗ろうとしている。

 2009年でチャンドラーが没後50年を迎え、著作権が切れ始めることもこうした新訳が現れ出す背景にはありそうだ。5作品の独占翻訳権を持っている早川書房では、村上さんに『さらば愛(いと)しき女よ』などの翻訳も依頼したいとしている。

 村上版だけで30万部以上を狙うという降ってわいたチャンドラーブームだが、それがハードボイルド再評価にはすんなりつながらない。

 いち早く見本刷りで村上版を読んだ作家の大沢在昌さんの表情は渋い。「村上版では、長いあとがきにも帯にも一切ハードボイルドということばが使われず、『準古典小説』と定義されている。これでは村上ファンが一時的にチャンドラーを読むようになっても、ハードボイルドというジャンルの復興にはつながらないのではないか」

 あとがきで村上さんは、ハードボイルドを使わない代わりに「いわゆる『非情』系統の文学」という表現を使った。意図的に手あかのついた「ハードボイルド」ということばを避けたことは確実だ。また、チャンドラーの作品が『本格小説=純文学』の世界に影響を与え、「少なくとも僕はずいぶん影響を受けた」とも記す。

 チャンドラー作品を「準古典」と位置づけた村上版によって、その作品群は現代にも通じる都市文学として読まれる可能性が広がった。しかし、それはハードボイルドというジャンルには「長いお別れ」を告げるもののようだ。

 〈レイモンド・チャンドラー(1888〜1959)〉 シカゴ生まれ。33年に「脅迫者は射たない」で作家デビュー。39年には私立探偵フィリップ・マーロウを主人公とした初長編『大いなる眠り』を発表。「さよならを言うのは、少しだけ死ぬことだ」(『ロング・グッドバイ』)、角川映画のキャンペーンに転用された「しっかりしていなければ生きていけない、優しくなければ生きている意味がない」(『プレイバック』)など名セリフも多い。

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