2009年9月8日
作家中上健次が始めた熊野大学が和歌山県新宮市で先月開かれた。没後17年。参加者の多くは中上死後、作品に接した世代だ。講師陣でも中上を直接知るのは最年長の島田雅彦氏、長女の中上紀氏だけ。中村文則氏、円城塔氏、東浩紀氏、前田塁氏ら講師側も「中上以後」世代による「第3期」熊野大学のスタートである。
過去のシンポジウムでは、中上作品を日本の「近代文学」の問題に重ねて討議、論じられるのは小説の中身だった。世界がフラットになり、実存の陰影を失うとき、小説、特に純文学に書くことはあるのか――今回のテーマ「21世紀の日本で小説は本当に可能か」も、小説の中身への問題意識かと思ったら、全然そうならないところが面白かった。
話を引っ張ったのは東氏。村上春樹氏の新作『1Q84』だけが驚異的に売れている事態に、「あらゆる業界で売れる売れないが二極化している。アニメだって売れない物は数百単位しか売れない。その中間をいかに増やすか。生き残っていくために力を使う、それが抵抗だ」と、すっぱり。小説を売る仕組みの再構築の必要性を語る。
たとえば以前の「J文学」のように連帯・集団化して見えやすいレッテルを創出するなどの策を出すと、島田氏が「それ、昔だと同人誌だ」。「やるべきです。シーンを作ることが大事」と東氏。すると中村氏が「僕らの世代は、くくられるのがいやなんですよね」。東氏は「いい作品さえ書けば残ると思うのはロマンチシズム。いい作品を発見できる読者がいなければ残らない。中上は100年後にも必ず残りますけど」。
旧来の活字メディアの足元が液状化する中、小説の可能性はどう語られ得るか。中身以前の討議が、そのまま現在の「文学」かもしれず、またいかにも「リセット」された熊野大学らしいのかもしれない。(大上朝美)