■飛雄馬やジョーはどこにいるのか
かつて、階級論は、社会(科)学の中心にあった。だが、20世紀の後半になってくると、社会科学における「階級」という概念の重要度は次第に低下してきた。その理由は、いわゆる「先進国」では階級の格差がそれほど深刻ではなくなり、もはや最重要の社会問題ではないと見なされたことにある。
とりわけ日本は平等な社会であると考えられていたため、マルクス主義に関心をもつ研究者はいても、階級論を中心に据える人は少なかった。階級論の問題意識は、世界システム論や従属論といった国際的な分業体制を扱う理論に継承されていった。
ところが、21世紀に入った頃から再び、階級論の意義が見直されるようになった。原因は言うまでもあるまい。先進国の内部でも経済格差が拡大してきたからだ。一時ほとんど使われなくなっていた「貧困」という語も、普通に用いられるようになった。
本書の著者、橋本健二氏はずっと一貫して階級論を専門としてきた社会学者である。橋本氏は私とほぼ同年齢なので、1980年代の初頭に大学院に在籍して研究者としての歩みを始めたはずだ。上に書いたように、その頃は「階級」は人気のテーマではなかった。しかし、橋本氏はちょっと変人扱いをされながらも、階級論を専門として選んだようだ。そして今、階級論がどうしても必要とされる時代になった。最初から階級を研究テーマとしていた橋本氏は、慧眼(けいがん)の持ち主であった。
本書は、現代日本を階級社会として捉え、その構造を、信頼できるデータに基づきながら解析している。もともと2006年に出版されたものだが、基本的な内容は、今でも問題なく妥当するだろう。
まず、マルクスやウェーバーといった初期の社会学者によって導入された階級概念が、新しい階級論の理論家たちによってどのように手直しされたかが要約されているところが、読者にはよい。この部分はきわめて簡潔ではあるが、要点をきちんとおさえており、本書が、「格差社会」についての直感的な記述に終わっている類書と違って、学問の蓄積の上に成り立った堅実なものであることがわかる。
また、現代日本社会について分析する前に、近代日本についての社会史的な記述が入っているのも本書の特徴だ。戦前からの東京の居住空間のあり方が、階級の観点から説明される。あるいは、戦後の大衆文化を階級論の観点から読み取っている。
とりわけ、1960年代末期から70年代初頭にかけて当時の若者たちを魅了した梶原一騎の諸作品が、すべて階級闘争を描いているという読解は本書の最大の読ませどころだろう。確かに、『巨人の星』の飛雄馬と花形の対決は階級闘争そのものである(飛雄馬は東京の下町の貧困家庭の出身で、花形は大企業の社長の息子)。『あしたのジョー』の矢吹ジョーと力石のライバルも、やはり階級闘争の線で解釈できる。ジョーは「ドヤ街」の流れ者。力石は少年院の出身者だが、白木財閥の孫娘白木葉子の支援を受けている。つまり、力石とジョーの対決は、体制にへつらった者と反体制を貫いた者の対決なのだ。
究極の孤立無援の階級闘争を描いているのは、『愛と誠』である。ブルジョアの娘早乙女愛は、幼い頃自分を救ってくれた不良少年の大賀誠を愛してしまう。誠は、崩壊した超貧乏家庭の出身。彼は、自分を愛する早乙女愛に対してとんでもない仕打ちを繰り返すが、愛の恋情は一向に冷めることはなく、彼女の方がどんどん誠に歩み寄っていく。愛は、最後には自分の母親を「ダメなブルジョワ夫人」と罵倒するまでに至る。誠は一歩も引くことなく、孤独な階級闘争に勝ったのである。
こうした社会史的な記述を経たあとで、本書は豊富なデータを用いながら、現代日本の格差社会の現状を冷静に、客観的に分析する。階級格差が広がっているということは、調査データによって明確に実証される。資本家階級/新中間階級/旧中間階級/労働者階級という階級の区分からも外れてしまう、アンダークラス化した若者たちの現状、結婚と職業的成功というかたちで出世の機会が二重化しているがために複雑化している女性の階級所属の様相などにも、検討が加えられる。
それにしても、深刻な階級格差が存在しており、それは大きな社会問題だとして、こうした現実を打開する運動の担い手、一種の階級闘争を遂行する主体はどこにいるのだろうか。かつてマルクスは、プロレタリアートが革命の主体になると予想した。しかし、橋本氏が本書で提示しているデータから判断すると、今日の労働者階級やアンダークラスの人々から、そうしたラジカルな運動が出てくるとは思えない。
さまざまな調査は、労働者が最も政治的な関心が低い階級であることを示しているのだ。労働者階級は、他人に対する「一般的信頼度」が最も低いという調査結果も重要だ。一般的信頼度とは、よく知らない他人をどのくらい信頼するか、ということである。これが低い人は、他者と連帯しにくいので、社会運動の担い手にはならない。
橋本氏は、他の階級よりは政治的な関心が強い新中間階級に一抹の期待を寄せているが、そこから階級構造の全体を抜本的に変えてしまうような運動や構想力が出てくるとは思えない。かつて、飛雄馬やジョーや誠が遂行したような、妥協なき闘いの担い手が、そこから出てくると予想することはできない。
マルクスが、「階級 Klasse」という概念を導入したときには、特別な思い入れがあったと思われる。当時、一般的だったのは「身分 Stand」という語である。彼は、ヘーゲルも用いていた「Stand」を拒否して「Klasse」を使った。一説によれば(実は間違いのようだが)、Klasseは、パウロが用いたギリシャ語「klēsis」と関係がある。「クレーシス」とは、召命、「ある使命に向けての神からの呼びかけ」という意味である。
マルクスは、階級に、とりわけプロレタリアートに革命への呼びかけに応じる何かがあると直観していた。今日、その呼びかけに応える者は、どこにいるのか。というより、その前に、まず呼びかけが必要だ。呼びかけがなければ、主体は立ち上がらない。



