ネットと愛国 在特会の「闇」を追いかけて [著]安田浩一

[評者]大澤真幸(社会学者)

[掲載] 2012年10月23日

■「反在日」は国に愛されたい証しなのか
  
 「在特会」という団体。知っている人はよく知っているが、知らない人はまったく知らない。正式名称は「在日特権を許さない市民の会」。インターネットで、リベラルな論調をバッシングする「ネット右翼」と呼ばれる人々がいるが、在特会は、このネット右翼が街頭に出てきて騒ぎ出した集団であると考えればよい。本書は、安田浩一による、在特会についての渾身(こんしん)のルポである。今年度(2012年度)の講談社ノンフィクション賞などを受賞している。そうした賞に値する力作だ。
 在特会の主要なターゲットは、在日コリアンである。「主要な」としたのは、敵とされるターゲットが「反原発運動」「パチンコ」「フジテレビ」などとどんどん拡散していく傾向を見せているからだが、ともあれ、中心にあったのは在日コリアンである。
 在特会の運動のスタイルは、これまでの社会運動とはかなり違う。労働運動や学生運動などの左翼系の運動と異なるのはもちろんだが、街宣車を駆使して、演説だけをする伝統的な右翼の運動とも異なる。彼らは街頭で、「ゴキブリ朝鮮人」とか「叩(たた)き殺せ」とかといった聞くに堪えない罵詈(ばり)雑言を吐き、興奮したときには、犯罪のレベルの乱暴狼藉(ろうぜき)に及ぶ。
 在特会が結成されたのは、07年1月だという。在特会の「広報局長」によると、「母体となったのは『2ちゃんねる』のようなネット掲示板で、保守的な意識をもって〝活動〟してきた人たち」だそうだ。桜井誠という1972年生まれの男性が会長で、彼が主宰していた「東亜細亜問題研究会」なるネット上の「勉強会」を発展的に解消するかたちで、在特会は作られた。「桜井誠」というのは本名ではなく、「ハンドルネーム」である。在特会のメンバーはほとんどハンドルネームで呼び合い、よほど親しくならない限り互いの本名や職業を教え合うこともないとのこと。2ちゃんねるなどのネットの関係が、そのまま現実の社会生活に延長されていることが、こうした習慣にも現れている。ともあれ、その桜井誠は演説が巧みで、在特会員の間でカリスマ的な人気をもっている。本書によれば、桜井はかなり勉強もしていて、知識も豊富である。
 ところで、在日特権とは何だろうか。在日コリアンは「特権」などもっていただろうか。在特会が批判している、在日の「四大特権」は、「永住資格」「朝鮮人学校補助金交付」「生活保護」「通名」の四つだが、本書にていねいに解説されているように、少なくとも日本人がうらやましくなるような「特権」ではない。たとえば、生活保護を受給している世帯の比率は日本人世帯よりも韓国・朝鮮人世帯において高いが、それは、生活保護が給付されるような困窮世帯の割合が後者において高いからであって、韓国・朝鮮人に優先的に生活保護費が回されているからではない。在特会のメンバーはいつもハンドルネームを使っていて、本名を隠しているのに、在日の人たちが通名を使うのがどうしてそんなに不愉快なのか、と思ったりもする。
 しばしばターゲットにされている問題は、あまりに小さいのでちょっと笑いたくなる。たとえば、京都市の南の方のある朝鮮学校は校庭をもたないため、この半世紀ほど、すぐ隣の児童公園を使わせてもらってきた。在特会はこれを「日本人の土地が奪われている」と、まるで領土問題のように扱い、「朝鮮学校、こんなものはぶっ倒せ!」「朝鮮人はウンコ食っとけ!」などと校門前で叫び、公園内に設置してあった機材を壊したりした。近辺の住民が、児童公園が学校によって使用されていることに不満を訴えるのであれば、それはわかる。しかし、こうした問題は住民と学校と市の担当者の話し合いによって解決を図ればよいことであろう。関西中から在特会会員が糾合して、大騒ぎをする必要があるのだろうか。この種の暴力は、ネットで言うところの「炎上」とか「祭り」とかいう振る舞いの、「リアル版」であると考えるとわかりやすい。実際、この「抗議行動」を映した動画サイトには、膨大な数の「賞賛(しょうさん)コメント」が寄せられたとのことで、この騒動は、ネット的な「祭り」にそのままつながっている。
 どんな人が在特会をやっているのだろう。当然、興味をもつ。安田は、実にたくさんの在特会の会員に直接会って話を聞いている。もちろんいろいろな人がいるのだが、総じて言えば、一人ずつ会っている限りでは、拍子抜けするほどおとなしく、礼儀正しかったりする。たとえば、カリスマ会長の桜井誠は、高校時代は実におとなしい生徒で、元同級生の中には「そんな人、いましたっけ」とその存在を疑う者がいるほど印象が薄かった。
    *
 率直に言って、在特会の主張を理論や思想のレベルで問題にすることには、それほど価値はない。しかし、社会現象としては、在特会は興味深い。街頭で活動に参加する積極的な会員の数は、それほどではないとしても、ネット上で喝采を送る共感者の数は、そうとうな数にのぼる。
 安田は、フジテレビ抗議デモと関係づけながら、「運動」の広がりを示唆している。フジテレビが韓国ドラマをたくさん放映しているなどのことから、2011年8月に「日本を貶(おとし)める反日放送局」であるとして同局に抗議するデモが行われた。ネット上でフジテレビを批判している書き込みによると、「『笑っていいとも』の『好きな鍋料理ベスト5』のコーナーで『キムチ鍋』が1位だった」ことなどが、フジテレビの「反日」ぶりを示す「証拠」なのだそうだ。ということで、フジテレビに抗議するデモに集まった人が、およそ6000人。同時期の反原発デモと比べても大差がない。このデモは、在特会が主宰したわけではないが、安田の考えでは、こうしたデモに賛同したり参加したりする人々の心情が、在特会のような過激な行動の土壌になっている。
 どうして在特会に参加するのだろうか。在特会に類する運動や主張が、広範な共感を呼ぶのはどうしてなのだろうか。安田は会員・元会員、その他の周辺の人々にインタビューしながら、この点を多角的に考察している。私には、安田が引用している元会員の「自己分析」が、だいたい正しい方向を指しているように思える。承認されたいという欲求、認められることの喜びが、その根底にあるというのだ。たとえば、街頭で演説をする。最初はうまくできるものではない。それでも、最後にシュプレヒコールをすると、皆が唱和してくれる。唱和は、拍手喝采と同じ承認のサインであり、演説者にとっては、これは病み付きになるほどの快楽の源泉になる。安田に元会員が語る。「朝鮮人を叩き出せという叫びは、僕には『オレという存在を認めろ!』という叫びに聞こえるんですね」と。
 もっと踏み込んでもよいだろう。「認められたい」というより、彼らは「愛されたい」のではないか、と。在特会の組織は「疑似家族」の雰囲気が漂う、と安田は書く。在特会の相談役のようなことをやっている60代後半の保守系活動家は、こう言う。「彼らと付き合って、よくわかりましたよ。みんな家族を欲しているんだな――と」。年配の、昔からの保守系の運動家や伝統的な右翼は、最初は在特会と友好的な関係をもつ場合もあるが、ほとんど最後には離反してしまう。この人物は例外的に、長く在特会と付き合っている。ある元会員の言葉も引いておこう。「自分が大声で指示を出したときの快感と、仲間が守ってくれているんだという安心感。……人生のなかで、これほど高揚感を得たことはありません。ああ、仲間っていいなあと心から思ったんです。ぶっちゃけ、僕らって親からも世間からもたいして評価されていないじゃないですか」
 しかし、なお疑問は残る。どうして、「反在日」を掲げることで、承認されなくてはならないのか。在日が、たいした特権を持っていないことからもわかるように、それほど多くの人が、実際に、在日の人から深刻な被害を受けているとは思えない。どうして、たとえば、「男女平等」とか、「在日擁護」とか、「沖縄基地反対」とかの主張によっては、承認を得られた気分になれないのだろうか。
 細かい考察は、書評の枠を超えてしまうので、骨格になることだけを述べておく。彼らは「愛国」的な活動をしている(つもりでいる)。「愛国」は、普通は、国を愛することだ。しかし、彼らはむしろ、国に愛されたいのではないか。国が彼らを愛している、ということを実感したいのではないか。在特会の仲間やリーダー格のメンバーに愛されたいのはもちろんだが、彼らは、さらにその向こうにいるマスコミや世間にも愛されたいという欲求をもっている。在特会のメンバーは日頃はマスコミの情報は信じられないなどと、マスコミに憎悪の言葉を投げかけているが、安田は、実は彼らはマスコミに憧れ、マスコミに認められることを渇望している、と看破している。そして、彼らは国にも愛されたいのである。彼らが賭けているのは、国は誰を愛しているのか、という問いである。国は、「私」を、「われわれ」を愛しているのか。
 ところが、ここに「愛」というものの悲しい本性が効いてくる。「左翼」でなくて「右翼」でなければならない理由も、この点に関連している。左翼は、「在日を差別してはいけない」「在日と日本人を同等に扱わなくてはならない」と主張する。この主張を「愛」の言葉に転換すれば、「国は日本人も在日も分け隔てなく愛している」「国はすべての人を同等に愛している」というメッセージになる。しかし、「すべての人を愛している」ということは、よく考えてみれば、誰も愛していないということと同じ意味ではないか。誰かがあなたに、「私は万人を愛している。あなたはその中の一人なのだから、私はあなたを愛している」と言ったとしたら、あなたはその人に愛されていないと感じるだろう。
 愛が真実であるためには、断固とした分け隔てが必要になる。愛の対象から誰かが排除されていなければ、その愛はほんものではない。あるいは、誰かが憎悪されていなければ、愛は真実とは感じられない。普遍的な愛は、愛の自己否定なのだが、左翼は、まさにその「普遍的な愛」を主張しているように、少なくともネット右翼や在特会の人々には、感じられている。左翼が「偽善的」だという感覚は、ここから出てくる。国に愛されていると実感するためには、愛から排除される誰かがいなくてはならない。その「誰か」が在日コリアンなのである。「Xに愛されたい」という欲望が国に向けられたとき、つまりXの位置に国家が代入されたとき、「われわれ」と「在日」との差異を小さくしようとする「在日特権」なるものが我慢しがたいものに感じられてくるのではないだろうか。
 愛が「真実」になるために必要な「他者の排除」が不十分なとき、人は次のような剝奪(はくだつ)感覚をもつ。もともと、人間の快楽の中心には、愛されることの歓(よろこ)びがある。ほんものの愛を構成する際に必要な「他者」が排除されていないとき、人は、自分が得るべき快楽、自分に本来所属している歓びが、その「他者」に奪われている感覚をもつようになるのだ。このケースにおいては、在日コリアンに「われわれ」の快楽や幸福が奪われている、という感覚が襲ってくる。こうした剥奪感、疎外感は抗しがたい。在日コリアンの世帯が過剰に「生活保護費」を取っている、という妄想は、ここからくる。彼らが、われわれの「土地」を奪っている、という被害感覚も同様である。
 まだ考えなければならないことはある。どうして排除される他者が、とりわけ在日コリアンなのか。日本国内で「特権」をもっていると言える外国人がいるとすれば、それは誰よりも在日米軍なのに、どうして在日コリアンが問題にされるのか。左翼はずっと前から「普遍的な愛」を主張していたように見えるのに、どうして、つい最近になって、おそらくは21世紀になるかならないかの頃から、何やら「偽善的」なものに感じられるようになったのか。こうしたことを考察していくと、日本社会や現代社会について、隠れている困難がさらに発掘されるだろう。

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