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坊っちゃん [著]夏目漱石

[評者]市川真人(文芸批評家・早稲田大学准教授)

[掲載] 2013年01月11日

表紙画像 著者:夏目漱石  出版社:岩波書店 価格:¥ 420

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ペニーオークションのステマにひっかからない漱石型の思考法 

 芸能人ブログでの「ステマ」問題が、2012年暮れの世相をにぎわせた。「ペニーオークション」と呼ばれるネット・オークションの一種をめぐり、実際には参加していない競売に、あたかも入札・落札したかのようにタレントたちがブログ日記に虚偽を記載したというアレである。

 *ステマな鬼たち

 そもそも「ステマ」すなわち「ステルス・マーケティング」なる言葉が昨年の人口に膾炙(かいしゃ)したきっかけは、飲食店評価サイト「食べログ」に書き込まれた“口コミ”をめぐる騒動だった。それぞれの店舗を訪れたユーザーが主観的な感想や評価を書き込むシステムのそのサイトに対し、有料で好意的な書き込みや評価をする旨の営業を店側に行う業者が多数存在したというもので、公平性や信頼性を損なうとしてサイトの運営者側が告発したわけだ。
 芸能人の個人ブログでの日記ふう商品紹介であれ、飲食店評価サイトの書き込みや評価であれ、善意の第三者を装って恣意(しい)的な情報を流布させるそれら「ステマ」すなわち“一見マーケティング(PR)に見えないカタチで行われる宣伝活動”は、いかにもアンフェアに感じられるだろう。『人の心を操作するブラックマーケティング』(芳川充・木下裕司著)は「ステマ」の定義を、「金銭の授受がなくても、全く知らないものや、良くないと思ったものを推薦して、結果的に『騙(だま)された』とする人が出た場合」(逆に、よく知らないものを批判する、ネガティヴ・マーケティングも含まれる)だとする。その意味で、オークションや飲食店をめぐる前記の書き込みは、「騙された」と怒るひとがいる以上、「ステマ」の代表例だということになる。
    *
 だが、恋愛作品などではしばしば「そんな人だとは知らなかった」「そんなヤツとは思わなかった」などというセリフが口にされることでもわかるように、そもそも「知っている」ことと「知っているつもりが、よく知らなかった」こととの境界や、「良いと思う」か「良くないと思う」かの判断は、それほど定かなものではない。
 たとえば、誰もが知る絵本、浜田廣介『泣いた赤鬼』を思い出そう。人間たちと仲良くなりたい赤鬼が「ココロノ ヤサシイ オニノ ウチデス。ドナタデモ オイデ クダサイ。オイシイ オカシガ ゴザイマス。オチャモ ワカシテ ゴザイマス」と家の前に立て札を立てたけれどもみんな怖がってよりつかない、という設定のあの話だ。
 すっかりしょげた彼のもとを、友人の青鬼が訪れる。自分が人間の村へ出かけてわざと大暴れをするから、赤鬼はそこに登場し、正義の味方を演じればよい、そうすれば人間たちにも赤鬼がやさしい鬼だということがわかるだろう――そうもちかける青鬼の提案は、彼が赤鬼を信じ、なおかつ赤鬼がその期待を裏切らないことによって初めて正当化され、物語は“イイ話”として成立する。事実、村人たちは事件の後、赤鬼の家に通うようになり、「おにには人間の友だちなかまができました」というわけだ。
 だが、青鬼はほんとうに赤鬼のことを“知って”いるのだろうか。赤鬼はこの先、ずっといい鬼でいられるだろうか。少なくとも赤鬼のほうは、青鬼が人間たちに自分を売り込んでくれたあと、「コノママ キミト ツキアイヲ ツヅケテイケバ、ニンゲンハ、キミヲ ウタガウコトガ ナイトハ カギリマセン」とこっそり身を引くような男だと知らないまま彼の策に乗ったではないか(知っていてあえてそれに目をつぶり村人たちの歓心を買ったなら、そもそも赤鬼は“心のやさしい”者などでなかったことになる)。
 かように、知っていたつもりでじつはまるで知らなかったなどということは、日常茶飯事ではなかったか。
    *
 それでも『泣いた赤鬼』がいいハナシとして流通するのは、“村人と仲良くなりたい”という赤鬼の願望も善意なら、それを助ける青鬼の計略も無償の善意、加えて最終的に青鬼の自己犠牲があるからだ。
 だが、そのことは、“ステマであっても、善意ならOK”という線引きを可能にしてしまう。それがアリなら、「食べログ」問題でやり玉に挙げられた業者たちにも「そのお店がほんとうにいいから、それを伝えたくて営業をした」という言い訳(あくまでそれは言い訳に過ぎない)を与えかねない。
 「お金をとってるから、ダメじゃん?」と思う向きもあるだろうが、お金のかわりに友情を対価に、友人の経営する店について「おいしい」と書き込んで応援するのはOKなのか? ひどく味覚や嗜好(しこう)の偏ったひとの、けっして一般には共有されない「おいしい」は善意だからOKだが、そこそこおいしい友人の店についてちょっと表現をオーバーに書かれた「とてもおいしい」には悪意があるとすべきだろうか? オークションの場合も同様だ。落札していない品物を落札したと書かせるのがマズいなら、主催者自身が手を尽くして芸能人に落札させ、そのことを書いてもらうのならば、それはOKなのだろうか?
 それらを是としたいわけではない。常識的に考えて、これはよくてこれはダメ、という線もたぶん簡単に引けるはずだ。だが、緻密(ちみつ)に考えていけば行くほど、そこには定義しがたいグレーゾーンがあって、そのグレーゾーンの発見は、逆に全体を疑わしくさせずにいない。
 結局のところ、厳密に「知っているかどうか」や、「良いと思うか、良くないか」は、どこまでいっても水掛け論、価値観の違いに帰結する。だからこそ、『人の心を操作するブラックマーケティング』が記した、「金銭の授受がなくても、全く知らないものや、良くないと思ったものを推薦して、結果的に『騙された』とする人が出た場合」という定義も、なにより“「騙された」とする人が出たかどうか”に軸足を置いているのだろう。
 だが、「騙された」とはどういうことなのか――そこに、「ステマ」問題に隠された現代の宿痾(しゅくあ)が見えてくる。
 
 *私たちは「自分で判断」していない?
 
あらためて確認するまでもなく、「騙された」とは受動の表現、自身を受け身の立場に置いた言葉だ。自分の側にではなく他者のアプローチにイニシアチブを与えて、そこでのインフォメーションが間違っていたと感じたときに発せられる言辞。
 もちろん、日常われわれはしばしば騙されるし、誰かに「騙された」と感じもする。だが、それを非難するかどうかは、相手が正しい情報を与えるべき、与えて当然と感じているかどうかによって変わってくる。国産の小型自動車のテレビCMに出ていた外国人俳優が日常では運転手つきの大型車に乗っていたからといって怒る者がいないのは、CMは情報ではなくイメージであり、正しさが求められてはいないと思っているからだ。それと同じ意味で、「ステマ」への非難は、主として“正しく与えられるべき情報が恣意的に操作されていた”と感じることによって発生する。だがよく考えてみれば、私たちはなぜ、評価サイトの口コミや芸能人のブログに書かれた情報が“正しいはずだ”と思うのだろうか。
 そもそも、口コミやブログが広まったのは、“誰もが自由に、いつでも書ける”という、従来のマスメディアにはなかった手軽さと早さゆえだ。それとひきかえに、校閲によるチェックのような正確さは失われ(読者による事後的な監視に置き換えられ)、客観的な一貫性も“日常性”によって埋め合わせられようとしている。ならばそこに、あらかじめの「正しさ」を前提とすること自体、論理的に無理がありはしまいか?
 だからといって、それらのメディアが無意味だとか、旧来のメディアが優れていると言いたいわけではもちろんない。論じ始めればきりがないので今はしないが、両方のメディアが相互の有効性を生かして共存するのが今日の私たちに選択可能な最善かつ有効な道であるのだし、すでに現実はその方向に進んでいる。
 ならば、問題はどこにあるのか。それは、「騙された」という言葉に浮かぶ受動性、言い換えれば、判断の根拠を他者に委ねる私たちの怠惰にある。
    *
 ネットワーク以前の時代から、人々は、自身の判断やその根拠を、しばしば他者に委ねてきた。新聞がこう書いているから、著名人がこう言っているから、本にこう書かれているから……誰の言葉を信じるべきか、誰が自分たちにとって敬意や敵意の対象であるのかも、私たちは必ずしも自分で判断できてきたわけではない。
 とはいえ、個人に処理できる情報や知ることができる範囲に限界があって、人々相互の利害と価値観が一致しきらぬ以上、それはやむなき合理化の手段でもある。そうした営みは、血統によって王権が定められ、儀式や天変地異によって宗教的崇高が示されてきた時代以降、近代を経て今日に至るまで、じつはそう変わらないはずだ。
 平等と自由が訪れた近代以降、処理するべき情報、判断すべき対象はいっそう飛躍的に増え、それを処理可能な範囲に縮小する手段として登場したのがマスメディアであり、「あのひとが言っているなら」ととりあえず信じられてきたのが、疑似的なアイコンとしての政治家だったり芸能人だったり知識人だったりした(だから、いまさらステマなどと言わなくとも、たとえば日本に野球やホームドラマがTVを介して浸透したことが、戦勝国としてのアメリカの「ステマ」の結果だったことが、半世紀後の今日、有馬哲夫『原発・正力・CIA ――機密文書で読む昭和裏面史』などをわかってくる)。
 その意味で、そうしたアイコンや肩書・他者の判断や言葉への依存が、日々をなんとか生き抜くために“やむなく”用いられることは、(先に「怠惰」と書いたけれども)ある種の必然であるとも言える(あくまでそれは「やむなく」であり、全的にそれに依拠したときにどうなるかを戦争や独裁の記憶とともに私たち人類はよく知っているが、それはまた別の話だ)。
 かつてその主流は、新聞やテレビのようなメディアなど、特定の(ときに国民国家や中央集権と結びついた)規範や情報に集約されていた。手に届きやすい情報がそこにしかなく、またそれを信じることがひとびとに共通の土台だったときは、それでよかった。
 だが、時代は変わる。メディアが力を持った結果、その数を増やし、ひとびとに“平等”の概念が行き渡り、“誰でもメディアになれる”テクノロジーが成立したとき、従来の大規模なメディアの疑わしさがクローズアップされたことは、よく知られているとおりだ。
 そのとき、相対的に信用できるもののように登場したのが、ブログや口コミといったオルタナティヴなメディアであり、そこで流れる情報だった。“グルメ番組やグルメ雑誌の、いかにも加工された情報よりも、ユーザーひとりひとりの感想の方が信頼できる”“不特定多数を対象としたテレビCMよりも、自分が好きなあのひとが薦めるものの方が好みに合う”等々。
 だがそれはもちろん、先に書いた、判断の委託や依存がなくなったことではない。ただそれは、判断を委託する相手を細分化し、「騙される」相手を置き換えたに過ぎない。それは決して“これまでのメディアよりも信用に足る存在、判断を委託して信用できる相手が登場した”わけではないのだ。考えてみれば、そもそもテレビをはじめとする近代型の集約メディアの“登場人物”であり、そこで演出されるキャラクターとそれを演じる本人とが必ずしも一致するわけではない“芸能人”のブログに対して、「騙された」と憤ることこそ、本末転倒ではないか?
 
 *判断の合理化と「怠惰」
 
 話を冒頭のペニーオークションをめぐる「ステマ」に戻そう。“複数の入札者たちが最高値をめぐって競う”点では、通常のオークションと変わらないペニーオークションだが、大きな違いは、①運営側の利益元となる手数料が、落札金額に対してではなく“一回ごとの”入札に対して発生することと、②その手数料が品物を“出品した側”にではなく“入札した側”にかかることにある。
 ①についてまず言えば、“落札金額の何%”というタイプの手数料は、落札金額を超えることは原則ありえない(10万円の品物が落札されて100万円の手数料をとられるのでは、誰だって出品も落札もしまい)。だが、たとえば“1回の入札につき、100円の手数料”が発生するようなオークションの場合、1000回の入札があれば、手数料だけで10万円に達してしまう。その結果、「10万円の商品が、なんと3501円で落札されました(ただし、1円刻みの入札なので、手数料は35万円でした)」ということが生じうる。カッコの中が書かれていなければ、ぱっと見「なんとオトクな!」という話になるわけだ(もちろん、たとえば5回の入札で落札されれば、落札金額は5円、手数料の合計も500円なのだから、実際にオトクなこともありうる)。
 ②について言えば、“入札した側”ということは、必ずしも“落札したひと”を意味しない。ひとつの商品を5人で競っていれば、4人は“入札を重ねたが商品は落札できず、単に手数料を払っただけ”のひとが発生する、という仕組みだ。
 このようなペニーオークション自体が、(条件によっては入札側に有利な可能性が想定できてしまうがゆえに)つねに詐欺的だと言いきることは難しいことや、しかし(ときとして出品者と同一であるような)主催者が決して損をしないシステムを容易に構築できること、ようは“オークション”というより、胴元がいくらでもコントロールできる種類の博打(ばくち)のようなものだということは、少し冷静に考えてみれば、あるいは、実際に試しさえすればそう傷が深くならないうちに、容易に想像できるだろう(想像できることと、いざ試してみたときに射幸心を煽(あお)られてずぶずぶ深みにはまることはまた別だが)。容易に想像できてしまうからこそ、主催側は“こんな有名人が実際に落札してよろこんでいますよ”という(嘘の)情報を流すことで、そこで生じる疑いを消そうと思いついたはずだ。いってみれば、よく考えれば騙されるほうが難しい、くらいの話である。
 にもかかわらず、“芸能人だから”と誰かに判断を委ねることが、「騙される」契機を作ってしまう。言わばそれは、合理化と取り違えた無意識の怠惰にほかならない。それが判断を他人に委ねる怠惰である以上、相手が“芸能人”でなく“政治家”であっても“知識人”であっても、あるいは“友人”や“知人”であっても、同じことは生じうるのだ。
 『人の心を操作するブラックマーケティング』は、ステマを生む人間の性質として、「行列ができていると、良いものだと信じ込みやすい」「こんなに盛り上がる人がいるのだから、自分も盛り上がらなくてはいけない」などを挙げる。結局のところそれらもまた、判断の怠惰にほかならない。
 情報がどんどん多数化・多層化し、人間の数も増えてゆく今日、そのなかで生きてゆく私たちは過去の時代の人間たちと比べても、判断の合理化を否応なく求められつつある(それが良いか悪いかは別の話だ)。近代が構築した“マス”のシステムと、それが作り上げてくれた虚構に依存できなくなった環境下では、なおさらである。それは同時に、これまでとは違うなにかを安直に信じる“怠惰”の契機でもある。だが、そのことに気づくことができるのも、更新期である現代の環境ならではなのだ。
 
    *「漱石」というモデル
 
 そんなときに私たちが参考にできるモデルはどこにあるのか?
 ここでようやく、今回とりあげる電子書籍・1906(明治39)年に発表された夏目漱石の小説『坊っちゃん』が登場する。
 いまから一世紀以上も昔の小説が、なんの頼りになるだろうと思うかもしれない。だが、江戸から明治へ、封建制から近代国家へと日本が移行する激動の時期を迷いや苦悩とともに、それも“メディアと言説の世界”で生きた漱石の経験は、情報を主な舞台に明治期と同じくらいに時代が変化しつつある今日の私たちに、幾多の示唆を与えてくれる。
 なかでも『坊っちゃん』が興味深いのは、作品のモデルと書いた漱石の関係ゆえだ。漱石はその作品を、自分の旧制松山中学教員時代をもとに書いている。「この世に生れた以上何かしなければならん、といって何をして好いか少しも見当がつかない」「霧の中に閉じ込められた孤独の人間のように立ち竦んでしまった」(学習院での講演「私の個人主義」より)というその時代を、10年後に振り返って描くこと。そこには新米教師「坊っちゃん」を主人公に、新時代への憧れと不一致、江戸への郷愁と嫌悪が、入り交じっている。
    *
 『坊っちゃん』のなかで、今回の主題と結びつくのはたとえばこんな場面だ。
 赴任早々、まだ職場の面々の個性もよしあしもわからぬころ、主人公「坊っちゃん」は、のちに敵対することになるエリート教頭「赤シャツ」に船釣りに誘われる。
 「ここでおれが行かないと、赤シャツの事だから、下手だから行かないんだ、嫌いだから行かないんじゃないと邪推するに相違ない」、そう考えた坊っちゃんは、しぶしぶ彼らに同行する。気の乗らない釣りを早々に切り上げ、船上で寝ころがる坊っちゃんに、赤シャツとその手下「野だ」のこんな会話が聞こえてくる。
「『また例の堀田が……』『そうかも知れない……』『天麩羅(てんぷら)……ハハハハハ』『……煽動して……』『団子も?』/言葉はかように途切れ途切れであるけれども、バッタだの天麩羅だの、団子だのというところをもって推し測ってみると、何でもおれのことについて内所話しをしているに相違ない。話すならもっと大きな声で話すがいい、また内所話をするくらいなら、おれなんか誘わなければいい」「おれの事は、遅かれ早かれ、おれ一人で片付けてみせるから、差支えはないが、また例の堀田がとか煽動してとか云う文句が気にかかる。堀田がおれを煽動して騒動を大きくしたと云う意味なのか、あるいは堀田が生徒を煽動しておれをいじめたと云うのか方角がわからない」
 聞こえるように、でも聞こえきらぬように、坊っちゃん自身の陰口とその背後に疑われる堀田(作中で「山嵐」と呼ばれる、後に主人公の盟友となる男だ)について、赤シャツと野だは口にする。
 そこで行われているのは、赤シャツたちから坊っちゃんへの意図的なリーク、いわばネガティヴ・マーケティングと呼ばれるべきものの一種だ。そのことは、船を降りたあと、堀田の謀略について赤シャツが「だれと指すと、その人の名誉に関係するから云えない。また判然と証拠のない事だから云うとこっちの落度になる。とにかく、せっかく君が来たもんだから、ここで失敗しちゃ僕等も君を呼んだ甲斐がない。どうか気を付けてくれたまえ」と恩きせがましく忠告することでもはっきりとわかる。
 この日に限らず、あちらこちらで「赤シャツ」は出まかせと陰口を言いまわる。問いただせば、「あなたのおっしゃる通りだと、下宿屋の婆さんの云う事は信ずるが、教頭の云う事は信じないと云うように聞えるが、そういう意味に解釈して差支えないでしょうか」などと言い逃れる。他方で坊っちゃんと山嵐が止めに入った祭りの喧嘩(けんか)を“ふたりが首謀者だ”と地元の新聞社に嘘をタレ込んで陥れるのだから、「赤シャツ」はよほど情報戦略に長けている。
 結果、憤慨のあまり職を辞して松山を去ることに決めた坊っちゃんは、自分がやられたのとは真逆(まぎゃく)に、赤シャツの不義の現場を自分で確かめ糾弾することで「この不浄な地を離れ」る――それが『坊っちゃん』のお話だ。
 
 *曖昧さや両義性と向き合う こと
 
 そんな結末だけれども、作品冒頭が「親譲りの無鉄砲で小供の時から損ばかりしている」で始まる通り、夏目漱石は、正直を通りすぎて愚直ですらある坊っちゃんの性格を、必ずしも最善のものとしていない。前出の講演「私の個人主義」では、“坊っちゃんと敵対するハイカラ文学士「赤シャツ」もまた、自分自身がモデルだ”と語っているくらいだ。
 そのようなアンビバレントな物語の構造は、まさに、社会構造の大きく変化する時代の個々人の内面を模してもいる。漱石はそこで、赤シャツ的な裏表ある合理主義と、坊っちゃん的な直情径行の正直さの双方を、どちらを優越させることもなく描いた(主人公である坊っちゃんの視点では、勧善懲悪に成功したことになるけれど、マドンナを手に入れ職も失わなかったのは、赤シャツの方なのだから)。
 江戸から明治に至る激動の時期に漱石が手放そうとしなかった、そうした思考の両義性こそ、今日の道標になる。事実、漱石自身が、「新聞屋にかかれた事は、うそにせよ、本当にせよ、つまりどうする事も出来ないものだ。あきらめるより外に仕方がない」「そんな者なら、一日も早く打っ潰してしまった方が、われわれの利益だろう。新聞にかかれるのと、泥鼈に食いつかれるとが似たり寄ったりだ」と批判に躊躇しなかった新聞社に、『坊っちゃん』発表の翌年、籍を置くことになる。ほとんど言行不一致のようなそのふてぶてしさの根底には、新聞などしょせんフィクションだが、しかしそこに真実があるという両義的な認識があったはずだ。新聞社で漱石が身を置いた「小説記者」という、フィクションとノンフィクションの相反するポジションにこそ、その両義性がよく現れている。
 今日の、誰もが自由に書けるブログや口コミは、フィクションとノンフィクションの境界の曖昧さが、もっともよくあらわれる場所だ。書く側としてであれ読む側としてであれ(その両方を兼ねられるのが、まさに今日なのだから)、私たちは、その曖昧さと切り離せずに生きてゆくことになる。そのとき、ただ「騙された」などと言っていてもしょうがない。自分で情報を集め、考え、判断し、なおかつその結果に対しても常に懐疑的でありつづけること――そのように困難な時代に私たちは生きているのだが、それは漱石たちもかつて経験したものであるだろう。そうして、彼らが近代の日本を形作ってきたように、私たちもまた、困難の先に近代以後の日本や世界を形作っていけばよい。
    *
 さて、最後に。
 長々と書いてきたこの文章は、みなさんにとって、はたして信ずるに足るのだろうか? 『人の心を操作するブラックマーケティング』によれば、ステマかどうかの判断で「最も信頼できる要素は『長文である』」ものだというのだから、いよいよ原稿料の割にあわなくなったこの1万1000字とそこでの論理が信じてもらう根拠になれば、と書き手としては願っている。
 たとえ、『坊っちゃん』と近代をめぐるもうちょっと詳しい解説を収めた拙著『芥川賞はなぜ村上春樹に与えられなかったか』(幻冬舎新書)のリンクが下に貼ってあったり、“小説記者”漱石の入社先がこのサイトを運営している朝日新聞で、同じブックアサヒコムのアーカイヴに、漱石の新聞記者時代を描いた牧村健一郎「漱石がやってきた」なる連載が見つかったとしても……だ。

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