■焼酎も写真の視座も「筑豊文庫」で学んだ
福岡県・鞍手郡の上野英信さんの生活と仕事の拠点だった筑豊文庫を、ぼくが初めて訪ねたのは、1965年の1月。筑豊は当時、石炭産業の衰退でその悲惨な情況(じょうきょう)がたびたびテレビや新聞で報じられていた。その数年前には土門拳さんの『筑豊のこどもたち』が話題になっていたこともあって、写真学校に通っていたぼくにとって、筑豊は絶好の被写体に見えたのだ。“ぼくも正義感とヒューマニズムを持って悲惨な筑豊をリアリズム写真で訴えよう”と足を向けたのだった。
その日、ぼくのカメラバッグの中には、上野さんにいつでも質問できるように付箋(ふせん)をたくさん挟んだ『追われゆく坑夫たち』が入っていた。ちらほらの雪が舞い落ちる寒い日だった。しかし驚いたことに、その日筑豊文庫は創立記念集会とやらで、大勢の人が集まって酒宴の真っ最中だった。上野さんは初対面のぼくを招き入れお酒をついでくれた。耳馴(な)れない筑豊ことばでまわりの人からも話しかけられ、お酒をすすめられた。飲みなれない焼酎の酔いとともに、ぼくはいったい何の目的で来たのか、ここでの自分の存在が奇妙に思えてきたのだった。しかも、肝心の上野さんとはほとんど言葉を交わすことなく、付箋つきの本も、カメラも、ついに鞄(かばん)から出すことはなかった。
しかし、それをきっかけにぼくの筑豊通いが始まった。バスで、自転車で、ある時は1日500円で借りた軽自動車で、筑豊を巡った。夕方、筑豊文庫に帰るといつも人が訪ねてきていた。ぼくはその日出会った人や風景のことを思い出しながら、大きなテーブルの隅で、上野さんと客のやりとりに耳を傾けた。「オマエはどこに軸足を置いて撮るのか。どの目の高さから撮るのか」。無言のうちに問い続けられたのだと思う。その視点はぼくの仕事の土台になった。ぼくが抱いていたあの正義感もヒューマニズムも、いかに安っぽいものだったか。本に挟んだ付箋もいつの間にか無くなっていた。今思うとぼくの訪問をあの日に選んだのも、上野さんの謀(はか)りごとだった気がする。(写真家)
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60年刊の岩波新書、94年刊の同時代ライブラリーともに品切れ。径書房刊『上野英信集2』に収録(在庫少し)。