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ここから本文エリア 現在位置:asahi.com>BOOK>たいせつな本> 記事 たいせつな本 深沢七郎『楢山節考』 嵐山光三郎(上)[掲載]2007年06月03日 ■一見すると恐怖小説 じつは優しい母子愛 『楢山節考』を最初に読んだのは高校生のときで、度肝をぬかれた。姨捨山(うばすてやま)は、古くは『更級日記』の舞台となり、伝説をもとに堀辰雄が『姨捨記』を書くなど、多くの文芸作品に出てくるが、深沢七郎の『楢山節考』は、見てきたようにざっくりとナマに書いている。 自らすすんで山に捨てられにいくおりん婆(ばあ)さんを追悼する歌が「楢山節」で、その歌を考察する、というスタイルをとっている。 深沢さんのラブミー農場を訪ねたのは、40年前のことで、深沢さんは52歳、ぼくは25歳の若僧(わかぞう)編集者だった。 『風流夢譚(むたん)』事件で右翼に命をねらわれていたため、居どころが不明だった。全国を放浪したあと、埼玉県菖蒲町に農場を開いて2年目にやっと会うことができた。 それ以後、深沢さんが73歳で没するまでラブミー農場に通いつづけ、味噌(みそ)をつくったり、葬式の予行演習までしたが、没する寸前にバッサリと絶縁された。 そのてんまつは『桃仙人』(ちくま文庫)に書いた。深沢さんはアクマのようにすてきな人だった。世間からは人間嫌いの偏屈者と見られていたが、そのじつ淋(さび)しがり屋で、帰ろうとすると「泊まっていけ」とすすめられた。 「楢山節」は、深沢さんが作った歌で、三味線をひきながら「夏はいやだよ、道が悪い、むかでながむし、山かがし。楢山まつりが、三度来りゃヨ、栗の種から、花が咲く」とうたった。 捨てられるおりん婆さんは深沢さんの実母、さとじがモデルと、きかされた。 『楢山節考』を書いたときはジミー川上という芸名のギター弾きだった。死ぬ寸前の母を背負って、庭の木や花を見せて歩いて小説を構想した、という。 背すじが凍るほどおそろしい小説は、音楽の旋律があり、レコードを聴くように何度も読んだ。 すると、恐怖小説と思っていたのが、じつは優しい母子愛の物語であることが見えてきた。母恋いは、反転して、姨捨小説となる。(作家) ◇ 56年の第1回中央公論新人賞受賞作品。『楢山節考』(新潮文庫)に収録。58年と83年に映画化もされた。
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