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たいせつな本

フロベール『ブヴァールとペキュシェ』 四方田犬彦(上)

[掲載]2007年07月01日

■知識の渉猟は徒労に、皮肉な結末に親近感

 あるときこれといって趣味のない、2人の退屈な初老男が偶然に知り合い、ともに学問への深い情熱をもっていることを知って悦(よろこ)ぶ。彼らはそれ以来、まるで兄弟であるかのように切磋琢磨(せっさたくま)して書物という書物に読みふけり、そこから得た知識をノートに引用したり、興奮して朗読しあったりする。彼らは歴史学に熱中し、それに飽きると地理学、さらに天文学、生物学、風俗誌、また考古学ならぬ考現学と、次々と知の領域を渉猟しては次へ次へと移ってゆく。2人はあまつさえ宇宙の共通語を考案しようとさえする。……それで結果は? 結果は、何もなし。2人は少しも利口にならず、人格的にも向上しない。ただ振り出しに戻っただけ。すべては無為に終わり、老いだけが2人の上に残酷に覆いかぶさる。

 19世紀フランスの小説家フロベールが最晩年に書いた『ブヴァールとペキュシェ』という長編小説である。いや今かりそめに「長編」と呼んでみたが、はたしてこれが彼のそれまでの『ボヴァリー夫人』や『感情教育』といった作品と同じように小説といえるかどうか、わたしには自信がない。というのも半分以上の部分が、この2人の老人が引用したり読み上げたりする他人の書物、それもさまざまな分野の学問的著作の抜き書きから構成されているからである。まったく人を食ったというか人を馬鹿にした作品である。

 だがわたしにはいつからか、この小説が無性に親しげに感じられてきた。というのも、わたしが映画史家として、また比較文学研究家としてもう30年にわたって続けている仕事と、この2人の作業とはどこが違っているのかと考えるようになったからである。次々と他人の書物を読み、抜き書きをし、そこから著作めいたものをでっち上げる。研究といえば厳粛な雰囲気がするが、要は雪かき作業に似た徒労の行為かもしれないのだ。フロベールは「ボヴァリー夫人はわたしだ」と有名な言葉を吐いたが、その顰(ひそみ)みに倣(なら)ってわたしもいうことにしよう。ブヴァールとペキュシェはわたしだ、と。(明治学院大学教授)

    ◇

 1880年の死去で未完の遺作。鈴木健郎訳、岩波文庫上中下巻。筑摩書房の全集にも新庄嘉章訳で収録。

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