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たいせつな本

クリストフ・バタイユ「アブサン・聖なる酒の幻」 桜庭一樹(上)

[掲載]2007年11月11日

■著者22歳に驚き、発奮 甘くて、艶かしい文章

 そこなる、酒豪の方。貴方(あなた)です、貴方。酒豪とまではいかないまでも、そこそこは嗜(たしな)むという、そこの貴方も。「アブサン」というお酒を飲んだことはおありだろうか?

 わたしは、ない。名前だけはよく聞くけれど、味も、色も、そういえば材料さえ知らなかった。

 ニガヨモギを主成分とするアルコール度約70%の蒸留酒「アブサン」は、苦みのある緑の液体で、19世紀末の西欧で大流行。ランボーやボードレールなど芸術家にも愛されたが、神経系に損傷を与えるとされ、第1次世界大戦中の1915年に禁止された。

 そして次の世紀末、1994年に、クリストフ・バタイユが、忘れられて久しい酒への哀悼の意をこめて書いたのが、本書『アブサン・聖なる酒の幻』(集英社)である。

 世界大戦前夜。少年だった“私”は、両親と幸福に暮らしていた。村外れにはジョゼと名乗るよそ者の男が住み着き、地下室でアブサンを作っては村人に売っていた。ジョゼは世界中を旅した経験を持つ博識な男だが、文字が読めないという噂(うわさ)もあった。

 母とジョゼのあいだの、密(ひそ)やかななにかの気配。闇の中で金色に輝く液体の、むせるほど官能的な、やましさ。ある日“私”は地下室で、ジョゼと誰だかわからない女の情事を垣間見る。材料の花びらが詰まった大袋の陰で、女が吐息を漏らす。「アブ、サン……」。聞こえた言葉はそれだけで、しかし少年はその甘い響きを、大人になっても決して忘れることができない。

 やがて世界大戦が勃発(ぼっぱつ)、ついでアブサンの製造が禁じられる。父が出征し、ほどなくジョゼも村から消えた。幻となった酒と不思議な男のイメージが、少年の胸で苦く重なる。

 著者は22歳のとき、就職した香水会社の研修中に、夜毎(よごと)この物語を書いたという。読了後、この若さでこんな艶(なまめ)かしい文章が書けるのか、と驚愕(きょうがく)し、歳(とし)が近いこともあって非常に発奮した記憶がある。

 ちなみに、ヴェルモット酒が最もアブサンに近い、と著者は語っていた。そう言われると気になりますね。(作家)

   ◇

 辻邦生・堀内ゆかり訳。『安南』で94年度ドゥ・マゴ文学賞などを受賞。

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