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たいせつな本

保坂和志『季節の記憶』 大崎善生(下)

[掲載]2008年01月27日

■文字の釘を打ち込み 小説へと変わる瞬間

 小説とは文字という材料を組み合わせて柱や梁(はり)を張り巡らせ、平面の中から部屋や家や、社会や世界といった空間を立ち上がらせていく作業なのではないかと思うことがある。文章という平面が読者の中で何らかの空間を持ちえたとき、それが文字の集合体が小説へと変化していく瞬間なのではないだろうか。そんな考えを強く持ったのが本書を読んだ直後のことであった。

 僕と息子のクイちゃん、隣人の松井さんと妹の美紗、その4人が鎌倉の緑濃い自然の中である季節を静かに送っていく。その人間関係をロジカルな会話や鎌倉市稲村ガ崎の風景をまるで樹木一本一本を描くように細密に描写しながら、部屋を作り家を築き、それにとどまらずに社会を、さらには世界を構築していく。釘(くぎ)を一本ずつ打ち込み細部を組み立てていく作家のたてる槌音(つちおと)が聞こえるような気がすることもある。丹精に一字一字を打ち込んでいくその響きは心地よい。作家が文字という柱を自在に組み合わせて作り上げたのは、これ以上ないほどにピースフルで平坦(へいたん)で幸せで優しい世界だった。

 保坂さんと私は学生時代からの付き合いである。考えてみれば私の書いた小説をこの世ではじめて読んでくれたのが彼だった。小説とも呼べないような代物を見せても、いつも数少ない長所を拾い集めて誉(ほ)めてくれる。小説には徹底的に優しい人だった。

 「季節の記憶」を読んだのは私が36歳のときのことで、作家の道はとうに諦(あきら)めて専門誌の編集者をやっていた。本書を読んだとき、彼が築いた空間に浸るとともに、心の奥深くで何かがざわめいたような気がした。書くことに挫折して十数年も経(た)っていたにも関(かか)わらず、この本を読んだ直後に、自分でも書けるような錯覚に陥ったのである。おそらく本書は小説そのもの、あるいは小説を書くということと、とても近くにある類稀(たぐいまれ)な作品なのではないだろうか。それから実際に私が小説を書くのにはさらに数年の時間を要するのだが、自分の中に広がっていく波紋の起因のひとつが本書であったことは間違いない。(作家)

    ◇

 単行本は96年に講談社から刊行され、現在は中公文庫で読める。谷崎潤一郎賞、平林たい子賞の受賞作。

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