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ここから本文エリア 現在位置:asahi.com>BOOK>たいせつな本> 記事 たいせつな本 島崎藤村『夜明け前』 加賀乙彦(中)[掲載]2008年03月23日 ■時代への期待と失望 自然も大切な主人公 明治維新前夜の出来事を、武張った政治の出来事としてではなく、庶民の生活を主として描いた作品として、この作品は私に強い印象を与えた。多くの維新小説が、剣劇、陰謀、戊辰戦争という具合に描かれているのに、『夜明け前』は、青山半蔵という国学者で街道宿場の主人を中心にして、時代の変化を庶民の視点から小説化している。 一見起伏のとぼしい淡々とした小説でありながら、この小説が読者を飽かせずに、引っ張っていく力を持っているのは、半蔵の個人的な悩みが、時代への期待と失望という、引き裂かれた状況になり、ついに彼が発狂するという結末に追い込まれていくところが、迫力をもって描き出されているからである。 私自身は、昭和の戦争と戦後の平和の時代を描く小説を書こうと志したときに、『夜明け前』を心して読み、その小説作法の妙に教えられ励まされた。 小説のおもな舞台は、木曽路の入り口である馬籠宿である。街道を往来する人々は、さまざまな情報をもたらしてくれ、半蔵も新時代の到来を知ることができる。しかし、この小説は、半蔵という個人を中心にして成り立っているだけではない。彼は作品の主人公の一人にすぎないので、こういう個人を超えた民衆や学者や山の民の心が生き生きと伝わってくるところに作品の独創性がある。 私がもう一つ感心するのは山道を往来する人々の見る四季おりおりの美しい自然の様子が小説に興趣をそえていることである。日本人が故郷として懐かしむ風土が生き生きと描かれている。人間だけを主題としている欧米の小説とは違って、ここでは自然もまた人間と密接不可分な関係を持った大切な主人公として堂々と自分を主張している。 先端的な都会の風俗を描く現代小説とは、まったく違う小説の味わいがそこにあって、読者を楽しませてくれる。こういう小説が書かれたのは、島崎藤村が故郷の風土を微細に描くだけの観察の蓄積を持っていたためだと私は思う。彼は環境小説の祖なのである。(作家) ◇ 島崎藤村(1872〜1943)。自然主義作家。『夜明け前』は現在、岩波文庫や新潮文庫などで読める。
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