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吉田戦車『伝染(うつ)るんです。』 高村薫(上)

[掲載]2009年1月4日

■心地よいものに退屈 意味の「外」を体験

 人の脳は、自分にとって心地よい音、色、かたちなどの記憶を蓄えている。そんなものがいつ、どのようにつくられてきたのか知らないが、あるときまで私も自分が好きな音楽や絵画、小説、風景などの空間を自然に選び、接してきたように思う。そして生理的に合わないもの、理解できないものを自然に退けてきたのだが、四十になったころ、突然、心地よいものに退屈している自分を発見した。たぶん、年齢とともに精神の可塑性を失ってゆく自分への、物書きとしての本能的な危機感というものだったのかもしれない。

 当時、私には奇矯な若い知人がいて、「これ、サイコー!」と狂喜していたのが吉田戦車だった。もともとコミックをほとんど知らない中年には、それは面白いかどうかの以前に、この眼(め)と言葉の目録の外にある未知の何ものかだったと言うほかはない。そこにあるかたちや空間が、まったく意味をなさない。この眼に見えているものに身体の全部が違和感を訴え、生理的にも感覚的にもまったく親しみを覚えない。そして、やがて気持ち悪さだけがやって来る。それはまさに身体体験というものだった。

 とはいえ、初めは眼から五十センチ離して、右から眺めたり左から眺めたり。デフォルメとリアルが混在したそこでは、むやみに血と汗と鼻水が飛び交い、叫び声と独白が交錯し、生物も無生物もないぐちゃぐちゃの四コマのなかで、意味という意味が潰(つぶ)れてゆく。その手ざわりは、「こんなもの」というふうに人が言葉で言い当てている世界の外にある何ものかであり、ふつうは経験することのできない「もの自体」だったと言えるかもしれない。

 そんな世界を平面に写し取ってみせる作者の眼と言葉を前に立ちすくむというのは、しあわせなことである。意味に満ちたこの平板な世界を出てゆけない私の固い身体にも「外」があることを、垣間見せてくれた『伝染(うつ)るんです。』その他。(作家)

    ◇

 「ビッグコミックスピリッツ」に89年から94年まで連載。現在は小学館文庫で読める。全5巻。

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