2009年8月1日
高村薫さん=高波淳撮影
高村薫さんの新作『太陽を曳く馬』(新潮社)が刊行され、『晴子情歌』『新リア王』と書き継がれてきた福澤一族をめぐる三部作が完結した。今回は、『レディ・ジョーカー』以来12年ぶりに刑事、合田雄一郎を主人公に据え、抽象絵画の解釈や宗教をめぐる議論を深めながら、動機の不可解な殺人事件や禅僧の死の真相に迫っていく。
新作では、青森選出の有力代議士、福澤榮はすでに亡く、その息子で僧侶の彰之につながる二つの事件を核に展開する。合田を登場させたのは「21世紀に入り、前2作で描かれた大正、昭和初期、戦後の高度成長期に比べて、言葉でとらえにくい時代になった。これをとらえるためには第三者の視点が必要であり、その視点として合田を置いた」という。合田は『新リア王』の後半で一瞬登場している。当時28歳だった合田は42歳となり、一段と渋みを増したようにみえる。
「彼も男の厄年。それまでの経験や捜査手法が通用しない世の中だという実感を持っているはず。明るい顔では登場できない」
第一の事件は、彰之の息子で画家の秋道(しゅうどう)の殺人事件。床も壁も赤く塗りつぶすことに没頭する彼は、風呂場で出産中の同居女性の「声を消す」ために殴り殺す。捜査でも公判でも真の動機に迫ることができない。
「現代は、人間を言葉でとらえることができると妙に確信している。しかし、21世紀の今でも、人間のことは簡単に言葉ではとらえられないことを示したかった」
それは同時に「生きる不確かさ」に気づくことでもあるという。「生きていることの実感は、他者と向き合うことで可能になるが、それと他者を理解できることとは別の問題。現代に生きる実感はむしろ、理解できない他者と向き合って生きているという実感だと思う。秋道に向き合った合田が、自分自身もそれほど確かな存在ではないと気づく、そういう鏡として秋道はいる」
秋道の事件から3年後の2001年、東京・赤坂の禅寺で修行中の僧侶が施錠されていたはずの寺から抜け出し、道路に飛び出して死亡する。彼には持病があった。寺の管理責任を問う両親の刑事告訴を受けて捜査が始まる。
高村さんはここでも「言葉からの自由」を追求する。
「仏の理念を築いているのは言葉であり、二千五百年もの間、さまざまな言葉が語られた。その言葉に仏教者も縛られている。言葉という『意味』に縛られているのに、心をひとつに定める本当の『三昧(ざんまい)』はあるのか、生きながら『意味』に縛られない完全な自由はあるのかと考えた」
僧侶がオウム真理教の元信者だったことから、オウムを総括する議論が続くなかで、彰之は、決してとらえられないものに「常に問いとして立て続ける」ことで永遠に接近し続けることを説く。高村さんは、この「問いを立て続ける」ことは「生きることそのものであり、これ以上言いようのない究極の答えだと思う。そこに到達した以上、彰之の再登場はない」といい、『晴子情歌』に始まる長い物語は、ここに幕を閉じる。
警察小説から大きく作風を変えて始まった三部作を完結させて、高村さんはどこに向かうのだろうか。
「現代では出来事は固まりとしてそこに放り出されている。あとはそれをどういうふうにどこから眺めて言葉にしていくかが問われる。事件を追うことができるということは、その世界を言葉で言い表すことができるということだが、それには違和感があり、私の中では従来のミステリーは成立しないと思う。言葉にできない世界を小説という言葉で作っていくのは、彰之の『問い続ける』ことと同じで、一つ壁を立て、次に柱を立て、建築する行為そのものが小説になっていくのかなと思う。それ以外、今の私には現代をとらえるすべがない」
この気迫が合田雄一郎を実在させている。(都築和人)
著者:高村 薫
出版社:新潮社 価格:¥ 1,890
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