昔の文学者たちが青年だった頃の写真をみるとどきどきする。湯呑(ゆの)みしか置かれていない卓を囲んだ彼らの顔と名前を見比べては、おお、これがあのひとか、とか、こんな顔だったのか、などといちいち感激する。モノクロ写真のなかの季節はおそらく夏なのだろう。がらんとした部屋の窓が大きく開かれて、開襟シャツ姿の男たちは全員痩(や)せている。女性が混ざっていると、そのひとは必ず美しい。たぶん私は古い写真に込められた夢や野心や絶望の濃さに惹(ひ)かれているのだ。雰囲気的な憧(あこが)れと云(い)われれば、その通りかもしれないが、どんな時代にどんな場所でどんな人間がその言葉を生みだしたのか、ということへの関心は棄(す)てがたい。
『詩人たち ユリイカ抄』は、伝説的な詩集出版社書肆(しょし)ユリイカをつくった伊達得夫の散文集である。多くの詩人たちとの交友のなかに、虚無と活力が混ざった戦後の空気感が濃厚に漂っている。
〈かれ(引用者註<ちゅう>:稲垣足穂のこと)は気さくにぼくを自分の部屋に招じ入れたが、第一印象は、ぼくの予想を遥(はる)かに上廻(うわまわ)った。部屋には、何にもなかったのだ。湯呑み茶わんだとか、座布団だとか、机だとか、そんなものが何一つ見当たらない。(略)その抽象的ともいうべき部屋のまん中に膝(ひざ)をそろえてかれは坐(すわ)った〉
〈関根弘はTの上に馬乗りになると両手両足を動けないようにおさえつけ、突然自分の顔を相手のそれにくっつけて、ハッシとばかりその鼻に噛(か)みついた〉
〈その茶房の隅では、ウェトレスのユリ子さんが、黒い瞳をミスチックに光らせながら、立ったまま、南京豆をかじっていた〉
『日本の詩歌』には、「その骨組みと素肌」という副題からも感じられるように、写真で顔をみることのできない古代や中世の文学者の姿が生き生きと再現されている。フランスでの講演をもとにしているだけあって、古典の知識のない読者にもわかりやすい内容になっている。
『戻り川心中』はミステリの連作短編集だが、表題作の謎解きの中心には短歌がある。作者自身が近代の歌人になりかわって短歌を創作してしまったのだ。近代文学の枠組みそのものを逆手にとったトリックによって、歌人の業を扱った本作は現代ミステリの傑作になっている。