なにごとであれ無責任にふるまったり責任逃れを決め込んだりする輩(やから)に、ムカっ腹が立つのはなぜだろう。『「責任」ってなに?』は、その問いに素敵(すてき)な解答を与えてくれた。責任とは、すなわち呼応——相手の呼びかけに応えようとする態度のことなのだ、と。
〈(他者との間に)呼応可能な間柄を作り出し、維持し、発展させていこうとする態度。これが、個人に帰せられる責任の核である〉。責任とはネガティブに「負う」ものではなく、「担い合う」「分かち合う」ものだ、と著者は言う。たとえこちらの呼びかけに応えがなくとも、向こうの呼びかけにいますぐ応えられる自信がなくとも、とにかく〈呼応可能な間柄〉であることが肝心なのだ。
無責任なふるまいに対する憤りの根っこには、その間柄が一方的に断ち切られた悔しさや寂しさがある。それを裏返して考えれば、たとえば子どもに対するおとなの責任の果たし方とは、子どもが期待する応えを示す以前に、「声が届くはずだ」との信頼を裏切らない、ということにもなるだろう。
そんな〈呼応可能な間柄〉は、人間同士にかぎらない。『小説家が読むドストエフスキー』は、『罪と罰』のラスコーリニコフら作中人物が、神になにを呼びかけ、それに神がどう応えたかを探る。〈人間は罪悪(人殺し)をする人間を許容できるか〉という命題を描きつづけたドストエフスキーは、「神」と「人」の双方から事件や物語を照射することで、〈罪も愛も……極端で途方もないエネルギーに満ちてい〉る作品群を生み出した。
むろん、ロシアと日本では宗教の土壌が違う。「神」のありようも、おそらく大きく異なっている。しかし、宗教や信仰という枠をはずしても、死者と生者は〈呼応可能な間柄〉になりうる。『仏教VS.倫理』は、〈他者の極限〉である死者と関(かか)わることで生者が支えられていると説く。〈死者は生者を温かく見守り、あるいは厳しく糾弾する。その死者の力を忘れるとき、生者は生者のみで生きていくことができるかのように思い込み、生者の傲慢(ごうまん)が生ずる〉——戦争を知らない僕たちにだって、戦争の死者に対しての責任はある。それは決して負い目や苦行ではなく、なにかを共に「分かち合う」姿勢に他ならないはずなのだ。