小泉首相のがんこな靖国参拝がアジア外交の躓(つまず)きの石になっている。平和への祈りどころか、繰り返される反日デモの理由にされている。
なぜそういう事態が起きるのか。本書は「首相の靖国参拝がなぜ問題になるのか」を手がかりに(1)国民感情、(2)歴史認識、(3)宗教、(4)伝統文化、(5)新追悼施設案という順序で、複雑な事柄をていねいに「論理的に」解きほぐそうとしている。靖国問題とは何か。
論旨はわかりやすい。第一に、靖国神社を戦死の悲哀を幸福感に転じてゆく装置と規定する。第二に、A級戦犯合祀(ごうし)をめぐって、アジアの戦争で莫大(ばくだい)な被害者を発生させた植民地主義との関係を直視すべしと主張する。第三に「神社非宗教論」を否定して、首相参拝には合憲判決が一つもない事実に注目する。第四に、靖国信仰を「死者との共生感」に還元するまやかしを批判して、靖国神社には天皇のために戦死した霊しか祀(まつ)られていないと指摘する。第五に、どんな追悼施設も政治に反戦平和の意志がない限り、いずれ「第二の靖国」に転化するだろうと予言する。
国民感情を正面に据えた切り口があざやかだ。300万の戦死者を英霊として追悼したい遺族感情を中心に据えるが、同時に2000万のアジアの被害者の怨念(おんねん)はもとより、合祀されるのを拒むキリスト者・無宗教者の主張にも眼(め)が配られる。感情問題の厄介さは、どれもが心情としてはもっともだが、思想的には相反するという点にある。
だから靖国問題にはみな身構えてしまう。
その葛藤(かっとう)のただ中に分け入った著者は、明治2(1869)年に設立された東京招魂社以来の靖国神社の歴史をたどって、靖国信仰が戦死者とその家族にどんな安心立命と死後の浄福を約束したかを明らかにする。神聖な境内に戦場の死者の霊魂が迎えとられて永遠に眠る。この安息感は純粋無垢(むく)な宗教感情でなくて何であろうか。ゆえに首相の靖国参拝は政教分離を定めた憲法第20条に違反する、というのが著者の論法である。
明快である。だが靖国問題は、どう論じても俗にいう「割り切れない」ものを残す。《靖国感情》のほぼ主成分をなすこの要素は、論理とはまた別の方法で透析するしかない。本書には不思議に土俗の匂(にお)いがしない。招魂社の夜店・見世物(みせもの)は昔の東京名物で、例祭の日、境内にむらがる群衆には怪しげで猥雑(わいざつ)な活気が溢(あふ)れ、アセチレン燈(とう)の臭気がせつなく郷愁をかきたてていた。《靖国感情》はこのドロドロした底層から、死者と生者が同一空間で行き交う精霊信仰の水を吸い上げている。この泉に政治が手を突っ込むのは不純だ。民衆みずからそう感じることが大切なのではないか。
ナショナリズムと国際感覚のはざまで考えあぐみ、正直なところ、戦死者を祀るのは自然だが、自分が祀られる事態は迎えたくないと感じているごく平均的な日本人が、各自と靖国とのスタンスをさぐるのに便利な一冊である。