メディア批判がかまびすしいのに、メディアの側の痛覚は鈍い。内部に異議申し立てがあっても、大きく膨らむことはなく、やがてルーティン・ワークに流されて萎(しぼ)んでいく。最近まで内側にいた評者としては天に唾(つば)する思いだが、昨今の日本メディアは、テレビも新聞もなべてそんな病に侵されているようだ。
「客観や公正など幻想。すべての映像は撮る側の主観や作為を逃れられぬ」とするドキュメンタリー哲学に立ったメディア批判の書である。矛先は主に、その覚悟がないまま安全主義に逃げ込み、わかりやすい善悪二分論に与(くみ)してしまうメディア従事者や作り手に向けられる。
TVドキュメンタリー出身の映像作家である著者は、オウム真理教や取り巻く社会を被写体として描いた長編のドキュメンタリー映画「A」や、続編「A2」などで国際的に評価されてきた。最近は活字メディアでの時評的な発言が目立つが、本書の圧巻はやはり自身の生々しいテレビ局との軋轢(あつれき)や挫折体験であろう。
「殺人集団」の視線が足りぬとオウムの撮影がお蔵入りになった経緯。精神障害者の犯罪を扱ったニュース特集で、モザイクの多用を強いられた体験。そしてテレビ全体からのドキュメンタリーの後退……。そこには煩雑な取り組みを避け、安全な規格品を量産するメディア状況がそのまま浮き彫りにされている。
そんな時代だからこそ、見る側にメッセージへの渇望が強まっているのではないか、とも思うのだが、「華氏(かし)911」のマイケル・ムーアには、「ドキュメンタリーを愛していない」と冷たい。
「メディアの営みは商業行為」と割り切り、視聴率や発行部数を追求するのは必然だと言う著者は、その商業化が近年臆面(おくめん)もなくなっているとし、記者やディレクターたちの葛藤(かっとう)や煩悶(はんもん)がなくなっていることが問題だ、と言う。
内外の作品を紹介しつつ披瀝(ひれき)されるドキュメンタリー論は「撮ることに自覚的な作品でなければならぬ」の確信に尽きている。状況を動かし得るのは「個の志」しかない。著者がいうのは、結局そのことであるように思われる。