仏教に惹(ひ)かれる哲学者は少なくない。
確かに仏教という体系は魅惑的だ。けれども、哲学者のアプローチは往々にして知解に偏りがちだ。
しかも瞑想(めいそう)修行などに凝り出すや、その体験を悟りと短絡する傾向もある。
本書は、哲学者と僧侶の論考の往復によって構成されるが、アタマにもカラダにも、囚(とら)われていない。
著者の一人、内田樹はレヴィナスの研究者、哲学的エッセイの名手であると同時に、合気道の達人でもある。つまり身体の不可思議には馴(な)れっこなのだ。だからこそ僧侶と五分(ごぶ)で渉(わた)り合える。
対する浄土真宗本願寺派の釈徹宗は修行三昧(ざんまい)の坊さんではなく、宗門きっての理論派として知られる気鋭の学僧だ。
こんな二人の共著が、単なる浄土真宗入門であろうはずがない。
一冊目の『いきなりはじめる……』では、仏教における因果の捉(とら)え方がメインテーマとなっている。まず内田が勧善懲悪的な業報説の反倫理性を指摘し、レヴィナスの有責論を参照しながら、因果律を転倒させる思想の重要性を説く。
この提起を受けて釈は、同時決定的、相互依存的な縁起観(「因があるから果があると同時に果があるから因がある」と観じること)こそが仏教独自の因果論であると応じる。
語り口こそ和やかだが、ピンと張り詰めた思考が向き合っている。
釈が、仏教の説く因果、縁起の認識は「おのれの執着・無明を相対化するためにこそある」と打てば、内田が「それは因果による思考を放棄することではなく、広大で、豊かな因果のネットワークを構想する知性を励ますためではないか」と響く。このように互いの思索を照合しながら、次第に仏教の土台を明らかにする。
二巻目『はじめたばかりの……』では、善悪論を軸に親鸞の考説、浄土真宗の基本教理が検討される。
内田は「真に知性的であろうとすれば、人間は宗教的にならざるをえない」と総括している。だが、宗教の側の読後感としては「真に宗教的であろうとすれば、人間は知性的にならざるをえない」だ。