次代を担う大学生たちとの接触が深まるにつれ、「新聞に未来はないかも」の思いも深くなる。「押し付けがましいメディア」との覚めた新聞観。どこか胡(う)散臭(さんくさ)く受け止められてしまう「ジャーナリズムの使命」といった言葉。彼らの間に、新聞への親近感はおろか、情報や思考のツールとしての存在感がほとんどないことに慄然(りつぜん)とする。
ひと昔前の先輩たちと違い、彼らは社会人になっても、今のままの新聞には目を向けないだろう。そのことはほとんど自明だと思われるのに、新聞の側に何とかせねば、の変革の動きはない。
米国は一歩先を行く。読者が新聞を離れたのではなく、新聞が読者を離れてしまったのではないか——発行部数も読者も減少した八〇年代末以降、こうした認識から、全米各地の地方紙で、再生の新たな試みが始まった。シビック・ジャーナリズムとか、パブリック・ジャーナリズムと呼ばれる改革運動である。
新聞を読者と交わり、かかわりあい、ともにつくる「場」に。そんな掛け声に象徴されるこの運動の足取りと実践活動を、東北ブロック紙の論説委員が、米国各地で見た報告だ。何より、運動推進の根拠地となってきたNGOや、創始者といわれるウィチタ・イーグル紙のバズ・メリットをはじめ、各地で出会った関係者たちの熱意と発言が瑞々(みずみず)しい。
著者によれば、この運動を全米の新聞の五分の一以上が実践している。具体的な取り組みは、選挙報道の改革があれば、オンラインや公開討論会、編集への関与といった読者との双方向性の追求、コミュニティの問題解決への積極的な関与など様々であり、ひと括(くく)りにするのは困難なようだ。要は「上から見下ろす」ような従来のジャーナリズムへの反省に立つ諸々(もろもろ)の試みなのであろう。
この運動に、ワシントン・ポスト紙など大手紙は「客観主義からの逸脱」だと冷淡だそうだ。しかし、選挙の投票率の低下一つをとってみても、従来型報道が市民の冷笑主義と無関心の広がりを生んでいる、との問題意識は、一つの核心を突いているのではないか。