記憶とは本来当てにならないものだ。ところが、私達(わたしたち)の実在感はその不確かな記憶に深く根ざしている。
「9・11」をきっかけとした世界瓦解(がかい)の感覚と誤記憶の自覚。この物語は実存を支える足場の崩れから始まる。
作者の分身である「私」は、冒頭から現(うつつ)を逸し、夢幻界にまろび出ている。泡や影のように覚束(おぼつか)ないこの世にあって、なお「信じるに足るもの」を希求し「私」は旅立つ。ヴェトナムへ。
ヴェトナムで一夏を費やして、「X師」の生の痕跡を辿(たど)ると決めてあった。「X師」とは、アメリカの支援を受けたゴ・ディン・ジェム政権の仏教弾圧に抗議するため、自らの身を焼いて果てた僧侶である。一九六〇年代前半、ヴェトナム戦争の泥濘(でいねい)の入り口で起きた事件だった。その火定(かじょう)(焼身入定)の姿はメディアを通じて全世界に配信され、人々を震撼(しんかん)させた。
四〇年以上も前に死んだ、名前すら知らない一仏僧が、この「私」にとって、世界、そして記憶の要となり得る唯一の存在だったのだ。
妄想、なのかもしれない。賢(さか)しき疑念が幾度となく脳裡(のうり)に浮沈する一方で、官能の膚(はだ)が熱帯の空気に触れて、はしたなく蕩(とろ)けてしまう。
そんな「私」の迷いを映すように、「X師」——渡越してほどなく、ティック・クアン・ドゥックという名だったことが判明する——の実像は杳(よう)として掴(つか)めない。
「私」は寺院を巡り、当時の事情に通じていそうな僧侶に質問をぶつける。だが、その実、虚空に向かって問い掛け続けている。クアン・ドゥック師よ。どうして、あなたは自らを焼き滅ぼすという挙に出たのか。ブッダは苦行を否定し、中道を説いたではないか。激しい思いや行いを吹き消すことを理想とし、暴力を悪として退けたではないか。
「9・11」の自他の命の尊さを省みないテロリズムと、焼身による抗議を分かつ線が引けるだろうか。その差は「紙一重ではないか」。
ある老僧から、その答えは「法華経」にあると告げられる。確かに、薬王菩薩(ぼさつ)の焼身供養を賞揚(しょうよう)する章がみえる。
だが、「私」は得心できない。彼が何者なのか、依然としてわからない。
帰途に着く直前、クアン・ドゥック師がガソリンを被り、炎に包まれた十字路に立つ。
そこで「私」は官能を全開し、火定を追体験する。「印を結んでいた両手がほどけて、ゆっくり、上へあがっていく。ひじが曲がり、なにかを抱きかかえる格好だ。両足のひざも曲がり、ぐらっと左右にひらいている」
「女が、いとおしい男を深々と迎え入れる体位にそっくりだ」と「私」は感じる。また「出産の姿勢にも似ている」。この直喩(ちょくゆ)は暗喩を含んでいる。焼身は、いとおしい世界を受け入れ、世界を再生する行(ぎょう)だったのだ、と。
信仰告白か、私小説か。人によって読みが異なるだろう。宗教の側に立つ評者には、当今稀(まれ)な、紛(まが)う方なき「文学」であった。