保坂さんは、小説について、徹底的に考える。それから(同時に)、こう言う(書く)。
「私は小説をまず書き手の側に取り戻すために、この連載を書いているのだ」
「小説を書いていればそのあいだだけ開かれることがあるから書くのだ。『開かれる』『見える』『感じられる』……人によって言葉はそれぞれだろうが、小説を書いているときにだけ開かれるものがある」
この本では、特定の作家が問題にされているわけではない(カフカや小島信夫のように敬愛の対象となる作家はいるけれど)。また、特定の作品やテーマが集中的に扱われているわけでもない。ただただ「小説」が、というか「小説的思考」そのものが対象になる。そして、保坂さんは、そのことについて、繰り返し、飽きずに、書き続ける。
なぜなら、それは、ふつう一般の読者も、ほとんどすべての文芸評論家も、もしかしたら多くの小説家も、悲しいかな、小説というものを誤解しているからだ。
小説とは、(多くの人々が考えるように)ただストーリイのある散文なのではないし、登場人物たちに感情移入するために存在しているのでもない。それは、ひとことでいうなら、ものを考えるためのある一つの優れたやり方、なのである。
そのことの最良の、かつ具体的な例は、「小説が書かれる以前に、小説という概念を持たない人たちが小説的な思考をしたとしたら、どういう外見のものが書かれうるのか」という仮定で、保坂さんが、アウグスティヌスの『告白』について論じた個所だ。
「小説的思考」は、小説が生まれる以前から存在した、というこの魅惑的な考えに、ぼくも同意する。「整ったものを良しとする文章観から見ると歪(いびつ)で異様」なアウグスティヌスの書き方の背後にあるものを、それ以外の名前で呼ぶことは不可能なのだ。
「小説」とは何か。「小説的思考」によって書かれたもののことだ。では、「小説的思考」とは何か? それは、実のところ、『小説の自由』というこの本の中に流れている思考のことなのである。
ところで、これ、「5 私の解体」と「7 それは何かではあるが、それが何なのかは知りえない」の間は、番号なしで「桜の開花は目前に迫っていた」という章になっていて、そこは雑誌「新潮」に連載中に書いた短篇(たんぺん)小説なんですよ。なぜ、短篇小説が、そのまま、長篇評論の一つの章になっているのか、保坂さんはぜんぜん説明していない。でも、みなさんは、もうわかりますよね。「小説的思考」によって書かれているなら、当然、この『小説の自由』もまた小説であり、だとするなら、短篇小説が、その中に含まれていたって、なんの不思議もないじゃありませんか!