このエッセー集の著者、穂村弘は、子供の頃の夏休み、どこかへ行く予定も一切なく、ただ毎日、自転車に乗って駅前の本屋に行き、そこで、六時間以上、立ち読みしていたそうだ。読むのは文庫本、世界の名作。でも、何も、感じなかった。大人になって読み返したとき、なんて面白いんだ、と感動したそうだが、「何かに感動するひとは鈍感なんじゃないか、と今の私は思う」と「硝子(ガラス)人間の頃」というエッセーで書いている。
確かに私たちは、透明な硝子に包まれた子供時代を抜けでて、否応(いやおう)なく「世間」や「現実」に入門するわけだが、知らぬまになじんで、硝子の膜を忘れる。でも、この本を読むと、そういう膜の感触が蘇(よみがえ)ってくる。穂村弘は十分大人だが、まだ境界にいるのかもしれない。
書かれてあるのは、不恰好(ぶかっこう)な自分像。例えば。(1)あだ名がなかった。(2)素敵(すてき)になりたい。(3)上着のポケットには、アーモンドをいれている。ナッツ類が好きだ。(4)実は総務課長だった。(5)かつて北海道で同棲(どうせい)していた(意外)。(6)小心、臆病(おくびょう)、誰かに守ってもらいたい。(7)オーラがないですね(とファンに言われた)。(8)中学校では卓球部。(9)焼き鳥の串から肉をなかなか外せない。(10)もらった年賀状を深読みする癖がある。(11)はちみつパンと古本が好きだ。(12)気がきかない。(13)それにしても、いつのまにか、結婚していた……とまあ、こんな具合。自分の無能力を笑いながら、それをテコにして世の中を見つめ返す。頭脳明晰(めいせき)な恐るべき歌人だが、そういう姿は、ここに一個もない。
けれど、彼は四十を過ぎている。私も含めてだが、現代は外側の情報が物凄(ものすご)い速さで流れているのに、内側の時間が驚くほど緩慢。たぷたぷと停滞している。みな、年をとらない。成熟しない。そのことにムンクの「叫び」のような悲鳴をあげたくなる。
著者はそんな現代の不気味な皮膜を、ここでぬいぐるみのように被(かぶ)って演じて見せてくれている。本当はちがうんだ。こんなはずでは。額に汗をかき言い訳しながら。おかしくて深い、新触感を持った文章の書き手である。